「正しさ」をこえて 朝井リョウ『正欲』

正欲(新潮文庫) 作者:朝井リョウ 新潮社 Amazon 「読む前の自分には戻れない」みたいなことが文庫版の裏表紙に書いてある。確かにそうかもしれない。「正しさを欲する気持ち」が本書のいう「正欲」だとすると、程度の差こそあれ、それを持たずに生きること…

なぜ主人公に名前がないのか 千葉雅也『デッドライン』

デッドライン(新潮文庫) 作者:千葉雅也 新潮社 Amazon 知人に勧められて読んでみた。あまりわからなかったので、同じ著者の『現代思想入門』(講談社現代新書)を読んでみた。哲学的な内容も含まれていたので、小説理解の助けとなるかと思ったからだ。『現…

わたしはここにいる 今村夏子『むらさきのスカートの女』

むらさきのスカートの女 (朝日文庫) 作者:今村 夏子 朝日新聞出版 Amazon 語り手の謎 (ネタバレ)『むらさきのスカートの女』を読んでいる間ずっと不思議な感覚が付きまとっていた。それは「語り手」に対して漠然と感じる違和感だ。最初はその違和感を常識…

逃げ出す女 フォークナー『響きと怒り』

響きと怒り (講談社文芸文庫) 作者:ウィリアム・フォークナー 講談社 Amazon 『響きと怒り』は複数の長短編が同一の舞台や作中人物を共有する一群の小説群ヨクナパトーファ・サーガを構成する一篇。旧家没落の話だというので、年代記風のストーリーを想像し…

ジョー、メグの結婚にうろたえる オルコット『若草物語』

若草物語 (光文社古典新訳文庫) 作者:オルコット 光文社 Amazon オルコットの『若草物語』を読んでみようと思ったのは、映画『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』(2019)を見たから。その映画には四姉妹の姿がいきいきと描かれていた。喜…

ロカンタンの冒険 サルトル『嘔吐』

嘔吐 作者:J.P.サルトル 人文書院 Amazon 『嘔吐』は1938年、サルトルが33歳のとき、刊行された。刊行時期は第二次世界大戦の開戦前年だった。戦後、サルトルが文学のアンガージュマン(社会参加)を唱える前のことであり、本書に関する作者の態度も変化した…

観念と行為の間 三島由紀夫『金閣寺』

金閣寺 (新潮文庫) 作者:三島 由紀夫 新潮社 Amazon 『金閣寺』を読んで思ったのは、それぞれの時代を象徴する事件や出来事があるということだ。今年(2022年)で言えば、7月に起きた安倍晋三銃撃事件とその後、「国葬」に至るまでの一連の出来事ではないだ…

希望(仮)としての世界一周 津村記久子『ポトスライムの舟』

ポトスライムの舟 (講談社文庫) 作者:津村 記久子 講談社 Amazon 朝起きて「仕事に行きたくない」と何度思ったことだろう。でも、その気持ちを押さえつけるために「今がいちばんの働き盛り」などという刺青を腕に彫ろうと考えるナガセの心理には相当な屈託が…

記録する その2 ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』

裸のランチ (河出文庫) 作者:ウィリアム・バロウズ 河出書房 Amazon 「序文」にあるように15年間に渡って麻薬中毒だったウィリアム・バロウズは「病とその譫妄状態について詳しい記録」を取っておいたというが、その文学的あるいは反文学的記述、それが『裸…

記録する その1 ケルアック『路上(オン・ザ・ロード)』

オン・ザ・ロード (河出文庫) 作者:ジャック・ケルアック Kawadeshobo Shinsha/Tsai Fong Books Amazon 最初に思ったのは、フィクションというより、記録文学だということだ。ビート・ジェネレーションの代表作『路上(オン・ザ・ロード)』にケルアック自身…

物語と意識の果て 伊藤計劃『ハーモニー』

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA) 作者:伊藤 計劃 早川書房 Amazon (ネタバレ)昭和が話題になることがある。戦前の話ではなく、五十年ほど前のこと。電車の中でタバコが吸えたとか、トイレが汲み取り式だったとか。セクハラ、パワハラみたいな言葉も普及してい…

旅をする魂 澁澤龍彦『高丘親王航海記』

高丘親王航海記 (文春文庫) 作者:澁澤 龍彦 文藝春秋 Amazon (ネタバレ)高丘親王は実在の人物である。平安時代の初期に平城天皇の第三皇子として生まれた。のちに出家し空海に弟子入りした。還暦を過ぎて仏法を究めるため、唐に渡り、さらに天竺を目指し、…

死者の自律性 いとうせいこう『想像ラジオ』

想像ラジオ (河出文庫) 作者:いとうせいこう 河出書房新社 Amazon 2011年3月11日に起こった東日本大震災は東北を中心に未曽有の被害をもたらした。今考えるとあの地震を境に日本は大きく変わった。直接災害に見舞われなかった日本人もひどく精神的ダメージを…

ゆがんだ遠近法 多和田葉子『献灯使』

献灯使 (講談社文庫) 作者:多和田 葉子 講談社 Amazon 未曽有の災厄後の世界を描いた小説は数多い。災厄後の激変した日本を描く多和田葉子の『献灯使』も広い意味ではディストピアものなのだが、SF小説的な終末観とは異なる印象を受けた。 百歳を超えてかく…

帝国と身体 J・M・クッチェー『夷狄を待ちながら』

夷狄を待ちながら (集英社文庫) 作者:J・M・クッツェー 集英社 Amazon 城壁に囲まれた辺境の町は帝国の首都から派遣されたジョル大佐により、その静寂が破られた。北方及び西方の夷狄(本書では遊牧民)に不穏な動きがあるといううわさが流れており、そうし…

「ルール」と「練習」の効用 アゴタ・クリストフ『悪童日記』

悪童日記 (ハヤカワepi文庫) 作者:アゴタ クリストフ 早川書房 Amazon 体験をどのように語るか。それは現実に対する自分の立ち位置を決めることにほかならない。アゴタ・クリストフの『悪童日記』はこの点について、戦略的でありながら、同時に誠実でもある…

才人春夫のモチベーション 佐藤春夫『美しき町・西班牙犬の家 他六篇』

美しき町・西班牙犬の家 他六篇 (岩波文庫) 作者:佐藤 春夫 発売日: 1992/08/18 メディア: 文庫 本書『美しき町・西班牙犬の犬 他六篇』には表題作など、実に多彩な短編が全部で八篇収録されている。編者はドイツ文学者でエッセイストの池内紀。若くして遺産…

苦悩と悲しみのかたち 藤枝静男『悲しいだけ・欣求浄土』

悲しいだけ 欣求浄土 (講談社文芸文庫) 作者:藤枝静男 発売日: 2013/11/29 メディア: Kindle版 藤枝静男の短編「一家団欒」を最初に読んだのは集英社文庫の筒井康隆選『実験小説名作選』というアンソロジーで、死んだ主人公の章が市営バスで郊外の墓地に出か…

分裂する横光利一 横光利一『機械・春は馬車に乗って』

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫) 作者:利一, 横光 発売日: 1969/08/22 メディア: 文庫 2020年は仕事に追われてなかなか読書が進まない1年だったが、横光利一を読んだことが2020年の読書の大きな収穫だった。本棚に積読として眠っていた『機械・春は馬車に…

人生を決定づける瞬間 アンダスン(シャーウッド・アンダーソン)『アンダスン短編集』

アンダスン短編集 (新潮文庫 ア 4-2) 作者:アンダスン メディア: 文庫 代表作『ワインズバーグ・オハイオ』で知られるシャーウッド・アンダーソン(アンダスン)の10短篇を収録した新潮文庫の短編集。作家的想像力という言い方をすることがあるが、その方向…

入れ物としての古典 太宰治『お伽草紙』

お伽草紙 (新潮文庫) 作者:治, 太宰 メディア: 文庫 恥ずかしいという感情が太宰治の基調を成している。生きること、存在することそのものが恥ずかしい。その恥ずかしさをキャラ化したような『人間失格』などの作品が書かれる一方で、『お伽草紙』をはじめと…

キャラと才能の転生 佐藤友哉『転生! 太宰治 転生して、すみません』 

転生! 太宰治 転生して、すみません (星海社FICTIONS) 作者:佐藤 友哉 発売日: 2018/09/16 メディア: 単行本(ソフトカバー) 1948年、愛人とともに玉川上水に入水したはずの太宰治がなぜか2017年の現代に転生し、数々の騒動を巻き起こすという奇想天外なお…

ライブ感と象徴性 石川淳『焼跡のイエス・処女懐胎』

焼跡のイエス/処女懐胎 (新潮文庫 い 3-1) 作者:石川 淳 メディア: 文庫 アンソロジーの楽しみの一つは、未読の作家と出会うことだ。澁澤龍彦編『暗黒のメルヘン』で初めて石川淳の短篇「山桜」を読んだ。それがきっかけで新潮文庫の短編集を読んでみたが、…

今村夏子は予定調和を知らない 今村夏子『星の子』

星の子 (朝日文庫) 作者:今村夏子 発売日: 2019/12/06 メディア: 文庫 (ネタバレ)今村夏子の小説を読むということは、不安と向き合うことである。朝日文庫版『星の子』に収録されている小川洋子×今村夏子の巻末対談「書くことがない、けれど書く」の中で、…

父親に出会う 村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』

猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book) 作者:村上 春樹 発売日: 2020/04/23 メディア: Kindle版 このエッセイを初めて読んだのは、『文藝春秋』(2019年6月号)に掲載されたときだ。村上春樹が父親の記憶や戦争体験などを息子の立場から語る率直な文…

記録すること カミュ『ペスト』

ペスト (新潮文庫) 作者:カミュ 発売日: 1969/10/30 メディア: ペーパーバック 新型コロナウイルスの感染拡大により、2020年4月8日緊急事態宣言が発令された。当初5月6日までとされた期間は、1か月程度延長されることが確実な情勢だ。安倍政権は国民に対して…

人間の輪郭 高山羽根子『うどん キツネつきの』

うどん キツネつきの (創元SF文庫) 作者:高山 羽根子 発売日: 2016/11/19 メディア: 文庫 高山羽根子の名は2019年に「居た場所」と「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」が芥川賞候補になったことで知った。調べてみると、『うどん キツネつきの』という短…

読書という快楽の果て アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫) 作者:アンソニー・ホロヴィッツ 発売日: 2018/09/28 メディア: 文庫 ※以下、犯人は明かしませんが、『カササギ殺人事件』の小説構成上、未読の方は知らないほうがいい内容を含みます。ご注意ください。 夢中で読んだ…

かめくんからカメリへ 北野勇作『カメリ』

カメリ (河出文庫) 作者:北野勇作 出版社/メーカー: 河出書房新社 発売日: 2019/03/29 メディア: Kindle版 少し遠回りする。『カメリ』を読んでいて思い出したのは、内田百閒の「房総鼻眼鏡」(『第三阿房列車』)の一節だ。 「大きな浪が後から後から打ち寄…

封印がとけるとき 小川洋子『密やかな結晶』

密やかな結晶 (講談社文庫) 作者:小川 洋子 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 1999/08/10 メディア: 文庫 リボン、鈴、エメラルド、切手…。『密やかな結晶』は、身の回りのものが一つ、また一つと消滅していく不思議な島に暮らす人々の詩情とサスペンスにあ…