「性」をとおって無時間の中へ D・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』

チャタレイ夫人の恋人』は、昭和25年に小山書店から完訳版が出版されると、わいせつ文書の罪で起訴された。裁判は最高裁まで争われ、最終的に発行人と訳者が有罪(罰金刑)になった。これがいわゆる「チャタレイ裁判」。今ではちょっと信じられない。初めて読んだ『チャタレイ』はわいせつどころか、長くゆううつで作者のおしゃべりがたいくつな話だった。
 でも、やっぱり時代ということがある。このあいだ、ミヒャエル・ハネケの『白いリボン』という映画を見た。舞台はドイツの田舎の村。『チャタレイ』とは時代がだいたい同じ、二つの大戦の間。一見ののどかな村につぎつぎと怪事件が起こる。抑圧された人間の心理を描き続けるハネケらしいうつうつとした映画。その地方を支配する男爵と村人たちの階級社会とか、教会が要求する敬虔さといったもののいかに厳しかったか、そういうことを考えさせられた。ロレンスはピューリタニズムに強い反発を持っていたというが、今の日本で階級とか道徳とかいったものはみなぐずぐずだから、不倫物語としての『チャタレイ夫人の恋人』の衝撃は、もうないかもしれない。
 現代人としてチャタレイ夫人(コニー)を見たとき、彼女がくりかえし口にする「からっぽ」「欺瞞」「無」「虚無」「空虚」といったことばはむしろ今の時代のものだと言える。戦争で半身不随になった夫との生活がむなしいのは、セックスができなくなっただけではない。彼女は森番と不倫関係になる前に、マイクリスという戯曲家とも不倫している。だから、性による喜びが女を満たすみたいな週刊誌的なことではなく、森番との性行為という入口を通って、むなしくない世界に導かれていたのだ。で、それはどこかというと、森番の小屋で一夜を過ごしたコニーは朝、小屋を出なければいけない時間が来たとき、次のように思う。

「もう起きる時間?」と彼女が言った。
「六時半」
 彼女は八時には小道のはずれに行っていなければならなかった。いつも、いつも、いつもこういう無理を強いられる!

 現代が時間に支配された時代だとするなら、コニーがいたのは、森番とひとつになることで時間の支配から逃れることのできる場所。その場所からふたたび時間の世界に戻らなければならないのはつらい。それにしても、なぜ「性」なのだろう。