「かしこい女中」と戦争 中島京子『小さいおうち』

 元女中の回想録にあったのは、戦争の影響が次第に色濃くなる時代の秘められた恋愛だった。戦争とそれがもたらす悔恨を一女中の目を通して描く中島京子直木賞受賞作『小さいおうち』は、山田洋次監督によって映画化されたことでも話題の長編小説。恋愛にまつわる謎が、サスペンス仕立てになっている。
 昭和の初め、尋常小学校を卒業し、山形から上京した女中のタキは、小説家の小中先生のお宅を経て、平井家に奉公する。平井家は、おもちゃ会社の重役である夫と若く美しい妻の時子、小学生の息子恭一の3人家族。その家族が住んでいるのが東京の郊外にある赤い三角屋根洋館、すなわち「小さいおうち」である。タキはそこを「終の棲家」と思い定めるほど、大好きだった。しかし、そのうちが好きだったのはタキだけではない。おもちゃ会社でデザインを担当する板倉という青年もまたそうだった。実際的なことが苦手で上司の前では無口な板倉も時子には最新の映画やクラシック音楽を語り、恭一には得意のイラストを描いてやる。いつしか時子と板倉はたがいに惹かれあうようになっていた。
 戦争はどのようにしてやってくるのか。これが『小さいおうち』の主要なテーマの一つである。『小さいおうち』は、昭和初期の東京を暗い戦争の時代として描くわけではない。昭和10年の東京は5年後にオリンピックを控え好景気にわく東京はうきうきした気分だったとタキは回想録に書いている。タキの回想録を読んだタキの甥の次男で、大学生の武志は、美濃部達吉天皇機関説が弾圧され、翌年には青年将校らが軍事クーデターである二・二六事件が起きている、そんな時代がうきうきしているはずがないとつっこんでいる。
 しかし、戦地で戦うことだけが戦争ではない。戦争はむしろ人々がうきうきした気分でうかれているとき、するりと人の心に忍び込んでくるらしいのだ。そして気がつくと、うっかりものも言えないような空気が作られている。また、自分の意志で行動しているつもりが、時代の空気に影響されている場合もある。父親がスパイ容疑で逮捕されたといううわさがたったことで、恭一がいちばんの親友と遊ばなくなるというエピソードは、この典型例だ。77歳になった恭一は、当時を回想して「あの時代は誰もが、何かしら不本意な選択を強いられた」と言っている。
 そして『小さいおうち』最大の謎は、タキは回想録によって何を書き残そうとしたのかということだ。そう、ことはタキの「不本意」に関わるはずなのである。『小さいおうち』にくり返し登場する「かしこい女中」の話がある。
タキはその話を小説家の小中から聞いた。あるイギリスの女中が、主人の立身出世を願う心から、ライバル学者の原稿を焼いてしまい、自らその罪をかぶったという。時子が、出征の決まった板倉に最後に会いに行こうとしたとき、タキはそれを止めた。人に見られたらうわさになる。時局柄ふさわしいことではないというのがその理由である。タキはきっとこのときあの「かしこい女中」を気取っていたに違いない。タキは板倉に時子の伝言を届け、板倉をご主人のいない平井家に会いに来させた。
 この小説がミステリー仕立てというのは、このあとどんでん返しが待っているからだが、その内容はここには書かない。タキがなぜ深い悔恨の情に苛まれていたか、それは彼女が「かしこい女中」どころか「時局」を体よく利用した自分勝手な女中にすぎなかったことに、回想録を書き始めて気がついたからである。戦争はまず人の心を変えようとする。そして、時代のただ中にいる人間には、そのことがわからない。同時にいわば心の防空壕のようなものを作って、必死の抵抗を試みもする。戦後ジョージ・イタクラは赤い三角屋根の洋館を聖域として描いた紙芝居「小さいおうち」を描いたし、時子は、食べるものがなくなった昭和19年、いま何を食べたいかゲームをして、思うさまぜいたくな食べ物のリストを作ったし、タキは自分の秘密を洋菓子の缶にいれて、とっておいた。『小さいおうち』は、戦場を描くことなく戦争を描いた作品である。