意外な奥行 マラマッド『マラマッド短編集』

 新潮文庫の『マラマッド短編集』(加島祥造訳)はマラマッドの最初の短編集である『魔法の樽』の全訳。あまり期待せずに読み始めて、「あれっ」てなって、気がついたら「読んでよかった」になっていた。一見とても地味だけど、一作読み終わるごとにその作品の奥行に驚かされるという感じだろうか。
 作品はニューヨークの下町を舞台に貧しい人々の生活を描いたものと、留学や旅行で赴いたイタリアでのできごとを描いたものがあるが、どちらもユダヤ系作家マラマッドの文化的背景が色濃く表れている。
 前者の場合は、生活苦によるうつうつとした日々に悔恨や挫折感がにじむ。こう書くと単に暗い小説みたいになるが、作中の下降のベクトルに抗するような上昇や反転のしかけが巧妙に仕込んであって、ひたすら暗いと思っていたものが、急に奇妙な光を放ち始める。それが実に妙な具合で、合理的説明がつかない動きを作中人物が見せたり、どう理解していいかわからない一行が最後にくっついていたりする。おそらくそれはこの世の光ではないのだろう。
「天使レヴィン」は、黒人の天使が、自分も体に痛みを抱えながら仕事と寝たきりの妻の看病に追われる男を救う話だが、酒場で飲んだくれている自称「天使」というのは、下降と上昇のとてもわかりやすい例だ。そうした例は、偏屈な老人の間借人を安アパートの部屋から追い出そうとする「弔う人々」、出入りの営業マンがつぶれそうな食料品店を営む未亡人とその娘を援助しようとする「われを憐れめ」などは、追い出そうとしたり、援助しようとしたりする側に唐突な反転が訪れる。貧しい生活を描くリアリズム小説とはちがう。
 どうもどこかにあの世に通じる回路があるようなのだが、それがそのように発動されるのかが、わからない。その最たるものが「魔法の樽」だろう。大学でユダヤ教の律法を学び、卒業後はユダヤ教の聖職につくことが決まっている主人公フィンクルが、聖職につくなら結婚している方が有利だという助言を受け、結婚仲介業の男に仲介を申し込む。彼は仲介業の男(サズルマン)が持ってくるどの女性も何かしら気に入らないとことがあるのだが、最後にもらった封筒に入っていた写真の女性に魅せられてしまう。何としてもその女性と合わせてくれと頼み込むフィンクルになぜか仲介業の男は首を縦に振らない。実は写真の女は仲介業の男の娘だったのだが、そこまでならありそうな話。ところが、小説の最後は次のような一行で終わる「(…)サズルマンが、壁によりかかって、その死せる者への祈りを唱えていた」
「その死せる者」とは? もしかしたら自分の娘の荒廃した精神のことをいっているだけか。わからない。いずれにせよ、この一行が作品の印象をがらりと変えてしまうのは事実だ。なんかこっちからはわからない回路があるようなのだ。
 「見ろ、この鍵を」「湖上の貴婦人」などイタリア物は、生活感がないだけ軽妙さが漂う。中でも「最後のモヒカン族」が出色。画家ジオットの研究者フィデルマンはイタリアの行く先々で難民の男ジェスキントに出会い、着る物や金をせがまれる。不条理コメディーのセオリー通りなのだが、ジェスキントがフィデルマンの書きかけの原稿が入ったカバンを滞在先のホテルから持ち去ったことから、追う者と追われる者の立場が逆転。フィデルマンとジェスキントの関係は、あたかも運命が擬人化されたような滑稽さと物悲しさがある。言うまでもなくジェスキントはフィデルマンのもう一人の自分。フィデルマンは画家になるのをあきらめて、ジオット研究に転じたが、それもまたうまくいっていないのを心のどこかで感じていたにちがいない。ジェスキントが逃げながら言う「言葉はりっぱだったけど、精神がこもってなかったよ」という感想には、胸をつかれた。