言葉と顔 西加奈子『ふくわらい』

 西加奈子の『ふくわらい』を読んでいたときだ。ん? と思って目元に手をやると涙が出ている。鼻水も出てるみたいだ。何かなと思った次の瞬間、感情がどっと追いかけてきた。ただ、その感情をどう名付けたらいいのかわからない。それでいて、頭より先に体納得している感覚がある。そんなことを『ふくわらい』をぼくに勧めてくれた人に話したら、それが「物語」ということやと言われて、なるほどなと思った。
 とても優秀な編集者だけど、友達も恋人もいない鳴木戸定。それでさびしいと感じることもない。食事もめんどうなだけ。そんな定のたったひとつの趣味は福笑い。4歳のとき、母に買ってもらった雑誌の付録だった福笑いに触れて以来、定は数えきれないほどの福笑いをやったので、大人になった今では、他人の顔の目鼻を勝手に動かして遊べるほどだ。
 定は感情というものを理解できない。もっと言えば、すでにできあがった世界というものを、そのまま自分のものであるかのようにふるまうことができない。そんなある日、定はプロレスラーが本業で雑誌に連載を持つ森口廃尊の担当になった。定は森口の顔をはじめて見たとき、驚きのあまり目を離すことができなかった。森口の顔はそのぐらい崩れていたのだ。そして、森口の書く文章もまた顔に劣らず個性的だった。定はその文章の感想を次のように言う。
「文章を書くときに言葉を組み合わすのではなく、言葉以前から始められている」
 森口廃尊はいわば顔も言葉も意味以前の存在であり、そこからおのれの存在をかけてリングに上がり、言葉を書き綴る。
 森口になぜ編集者になったのか問われた定は、何かができあがる瞬間を目撃することに感動すると言っている。しかし、何かができあがるということは、その都度何かがご破算になるということでもある。ぼくらは「意味」に囲まれて生きている。すでに意味づけされた世界を、ときにそうと知らずに受け入れていることさえある。定にしろ、森口廃尊にしろ、世界を理解するスキルに欠けていると言っていい。
 意味のない世界は怖い。言葉と、そして顔は世界に意味をもたらしてくれるものとして機能する。だいじょうぶ、と語りかけてくる。ただ、それは「世界」そのものではない。森口の前の担当者若鍋のように、「なんでも名前をつけて話を終わらそうとする」人たちがいるように、あくまで誰かが後付けしてくれたものだ。その都度「ゲシュタルト崩壊」を通過しないといけない定や森口を、そして世界を意味づけるのではなく、生きたものにするのは、「物語」なのだということがよくわかる。定は恋人も友達も作ることができたけど、『ふくわらい』において重要なのは、主人公の「成長」的要素ではない。小説の最後に無類に美しいシーンがあるが、それは見た目の「美しさ」ではなく、今できあがったばかりの世界と全身で触れ合う喜びにあふれているということ、そして、意味と意味の隙間からそれをちらっとでも見たという実感から来るものだと思う。