監獄の千夜一夜物語 マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』

「眠れないんだ。なあ、映画の話してくれよ。黒豹女みたいなやつ、他に覚えてないかな」
「ああいう怪奇映画ならたくさんあるわよ。『ドラキュラ』『狼男』…」
「他には?」
「『甦るゾンビ女』とか…」
 消灯時間を過ぎ、闇に包まれた監房で、二人の男のささやく声が聞こえる。映画のストーリーを聞きたがっているのは、テロリストで政治犯として収監されているバレンティン。それに応えて『甦るゾンビ女』のストーリーを語ろうとしているのは、ホモセクシュアルで未成年者への性的行為で捕まったモリーナ。モリーナは退屈ないくつもの夜を千夜一夜物語のシェヘラザードよろしくバレンティンに映画のストーリーを語って聞かせる。やがて二人は互いの距離を縮めていく。
 マヌエル・プイグの妖しくもせつない小説『蜘蛛女のキス』の魅力は、異なる要素が互いに反映し合うところにある。理想主義者で理屈っぽく、そのくせ身勝手なバレンティン。現実主義的で大衆文化をこよなく愛し、好きになった相手にはとことん尽くすタイプのモリーナ。対極に位置する二人の囚人が映画のストーリーを介して、互いを見出していく。彼らは映画のストーリーに自分を投影する。同時に映画のストーリーは、二人の関係性や運命、嗜好、生い立ちなどを暗示している。こうして闇に包まれた監房という一見静的な設定は、一気に多層的なさまざまなレベルへの展開を見せる。
 モリーナが語る映画は全部で6本。文庫の解説によると『黒豹女(キャットピープル)』『甦るゾンビ女』『愛の奇跡』『大いなる愛』の4本が実在の映画。「ナチの国威発揚映画」「コロンビアの過激派の映画」の2本はプイグのオリジナル。モリーナが語るのはいわゆるB級映画ばかり。訳者の野谷文昭は解説で小説で引用される『黒豹女(キャットピープル)』について、ナスターシャ・キンスキー主演のリメイクではなく、RKOオリジナル版であることを念押しし、その理由にリメイク版のヒロインにモリーナは自己投影できないからだと述べているが、モリーナにしろ、バレンティンにしろ、自分を映画に投影したり、解釈したりするために、作家性や芸術性といったものと無縁のB級映画独特の単純さを必要としたに違いない。
 本来出会うはずのなかった二人が監房で出会い、モリーナの映画語りを通して結びつく。モリーナはバレンティンに恋し、体調を崩したバレンティンもまたモリーナの献身に感謝する。やがて二人は体を重ねさえするが、しかし、それで二人は理解し合えるようになったのだろうか。
 映画語り以外に『蜘蛛女のキス』の特徴として挙げられるのは、対話、報告書、内的独白、詳細を極める脚注といったさまざまなレベルのテクストからなっていることだ。映画のストーリーが小説を前に進める推進力として機能しているとするなら、それ以外のレベルを異にするテクストの混交は、あたかも小説の盛り上がり、気分の高揚といったものをしずめ、二人の間にある溝を強調しているように見える。プイグは実に用意周到に重なり合うが一つにはならないふしぎなテクスト空間を作り上げている。
 モリーナが大好きだと言ったナチの映画をバレンティンは「くだらないナチの宣伝映画」とばかにするが、その映画がいかによくできているかを泣いて訴えるモリーナの気持ちは痛いほどよくわかる。お話してとせがむバレンティン、好きな映画をばかにするなと悔し泣きするモリーナは、一時的に社会性をはぎとられ、子供のようにかわいらしい。その一瞬を見逃してはならないと思う。
 たとえディスコミュニケーションがうきぼりにされているとはいえ、バレンティンモリーナが語ってみせる『黒豹女』や『甦るゾンビ女』の虜になっていたわけだ。そこにはプイグの意図や試みを超えて、「セルロイドのフィルムそのものになりたい」(!)と願ったプイグの映画愛があふれていて、それこそがこの小説を圧倒的に魅力的なものにしている。