本当の戦争を語るには ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』

 短編集『本当の戦争の話をしよう』には、22の短編が収められており、そのすべてがティム・オブライエン自身の従軍体験をもとにしたベトナム戦争の話だ。彼は歩兵としてベトナム戦争を体験しなければ小説を書くことはなかっただろうと語っているという(『カチアートを追跡して』「訳者あとがき」)。
 ベトナム戦争の体験がティム・オブライエンの人生を大きく変えてしまったことはまちがいない。しかし、体験した者こそが真実を語りうる、だから彼の小説に書かれていることは真実だと考えるのは、おそらくまちがっている。『本当の戦争の話をしよう』は、過酷な戦争体験を語ると同時に、戦争の真実は語りうるのかという問いがテーマになっているからである。
 大雨の中で糞にまみれて死んだ者、顔の半分を撃ち抜かれた者、地雷で無数の肉片になった者…。小隊の兵士たちは、次々に命を落とす。村は跡形もなく焼き尽くされ、黒焦げになった死体がごろごろと転がっている。『本当の戦争の話をしよう』を読むと、まず、出来事の重みに、次に作家の誠実さに向き合うことになる。
『本当の戦争の話をしよう』で語られる出来事に感じられる真実性は、ティム・オブライエンベトナム戦争に従軍したという事実に由来するのではなく、彼が出来事に向かい合う誠実さからくる。それは究極的には意味づけないことである。というか、出来事に意味はないという現実のあり方に忠実でいようとする。そのために彼がとったのは「はみだし」と「くりかえし」である。
「私は(やれやれ)四十三歳で、今は作家である。そして遥か昔、私はひとりの歩兵としてクワンガイ省を歩き抜いた。それだけを別にすれば、ここに書いてあることのほとんど全部は創作である。べつに欺こうというつもりはない。そういう形の本なのだ」(「グッド・フォーム」)
 語り手は書かれたものが創作であることを強調するが、「ティム」という名を与えられ、歩兵の一人として作中に登場する。これは「小説家としてはかなり危険なコミットメント」(村上春樹「訳者あとがき」)であり、作者が従軍したという事実がある以上、フィクションとしての土台が危うくなる。あえてフィクションを枠をはみ出してでも、そこに語られている出来事が閉じて完結することを防ごうとしているようだ。
 そして、語り手は兵士たちがどのように死んでいったかをくりかえし語る。かつてベトナムで自分が殺したベトナム人兵士の青年の例を挙げよう。ティムはベトナム人兵士の死体をじっと見つめるのだ。
「彼の片目は閉じられ、もう片方の目は星形の穴になっていた。私が彼を殺したのだ」(「グッド・フォーム」)
「彼の右目は閉じていた。左目は星の形をした大きな穴になっていた」(「待ち伏せ」)
「片目は閉じられ、もう片方の目は星の形をした穴になっていた」(「私が殺した男」
 3つの別の短編で死んだ男の目の描写がくりかえされる。語り手は言う。
「本当の戦争の話を語りたければ、ずっと繰り返しその話をしているしかない」(「本当の戦争の話をしよう」)意味づけることも、一般化することもできなければ、語り続けるしかないわけだが、それは意志の問題ではないかもしれない。
「新聞を読んでいたり、部屋の中に一人で坐っていたりするようなときに、私はふと目を上げて、朝霧の中からその若者が現れるのを見ることがある」(「待ち伏せ」)そう、死者たちはふとした空白を見つけては、出てこようとする。それを見るのはきっと苦しみでもあり、救いでもある。ティム・オブライエンはくりかえし物語る以外に死者たちが死後の生を獲得する方法がないのを知っているのである。