見ることの難しさ 多和田葉子『旅をする裸の眼』

 

旅をする裸の眼 (講談社文庫)

旅をする裸の眼 (講談社文庫)

 

  多和田葉子の小説を読むことは、単なる読書というより「体験」に近い。それは一般的な小説が前提としている要素を多和田葉子の小説は共有していないことに由来する。もう少し厳密に言うなら、前提を共有しないことから生じる現象が、多和田葉子の小説の小説においては主題化されるのである。

『旅をする裸の眼』の主人公「わたし」はベトナム人の女子高生。講演のために訪れた東ベルリンで知り合ったドイツ人青年に西ドイツのボーフムに連れ去られてしまう。さらに、モスクワへ行こうとして乗り込んだ列車でパリに行きつき、不法滞在者としてパリを転々とする。

 このストーリーで気がつくのは、多和田葉子が「わたし」を様々な点からマジョリティに属さないように設定しているということである。「わたし」は西欧社会における東洋人であり、ドイツ語もフランス語も解さず(話せるのはベトナム語とロシア語)、資本主義社会の価値観を共有せず、ビザさえ持たない不法滞在者なのである。

 帰属意識が私たちのアイデンティティに関わるなら、「わたし」はアイデンティティがあいまいな「裸」となって「旅をする」のである。その代償として「わたし」が獲得するのが「裸の眼」である。「見ること」は実は難しい。「見ること」をじゃまするのは、意味である。多くの場合、見ているつもりでも、必要な情報は意味として認知され、意味の網目にかからないものは、見ていても認識されない。

 映画を見ていて驚くのは、夕焼けとか、街の風景とか、ふだん見慣れているはずのものがとても美しいと感じることだ。しかし、ほんとは見てない。見てると思っているだけ。それは結局どういう文脈の中にあるかどうかというだけの話。「わたし」は様々な文脈をはぎ取られ、「裸の眼」になるのである。

『旅をする裸の眼』の目次を見てみよう。

「第一章 1988 Repulsion 1965」「第二章 1989 Zig Zig1974」…

「第十三章 2000 Dancer in the dark 2000」

各章とも物語内の時間、映画のタイトルと製作年となっている。(邦題は「1反撥」「2恋のモンマルトル」「3哀しみのトリスターナ」「4ハンガー」「5インドシナ」「6夜のめぐり逢い」「7昼顔」「8愛よもう一度」「9夜の子供たち」「10終電車」「11ヴァンドーム広場」「12イースト/ウエスト 遥かなる祖国」「13ダンサー・イン・ザ・ダーク」)

 これらの映画を「わたし」はパリでくり返し見る。13本の映画にはすべて「わたし」が「あなた」と呼びかける女優カトリーヌ・ドヌーヴが出演している。

「言葉が分からないのにどうして映画を見るの?」

 アパートに居候させてくれているベトナム人女性に問われた「わたし」は何も言い返さない。しかし、明らかに「言葉」など要らないのだ。「インドシナ」を見ている「わたし」はエリアーヌという作中人物を演じるドヌーヴを評して次のように言う。

「スクリーンに映されたエリアーヌの顔が見ているうちにどんどん浄化され、そこには表情というものから解放されたすばらしい自由が残った。解釈の仕方を押しつけてこない。特にあなたの顔が大写しになると、映画の始まる前のスクリーンのように、どんなことでも可能だという気にさせてくれる」

 映画のストーリーと小説内の現実を微妙にリンクさせながら展開する『旅をする裸の眼』は、言葉を「見ること」へ明け渡そうとするかに見える。しかし、これが小説である以上、それもまた言葉で行われるという困難がともなう。「視力っていうのは裂け目みたいなもの」だという最終章の盲目の女の言葉は「裸の眼」の旅路の果てに行きついた、視覚と言葉の格闘の結果として受け止めるものだと思う。