理屈を超えたもの フォークナー『フォークナー短編集』

 

フォークナー短編集 (新潮文庫)

フォークナー短編集 (新潮文庫)

 

  イ・チャンドンの映画『バーニング 劇場版』は作家をめざす苦学生、その幼馴染の女、女が旅行中に知り合った富裕層の若者という三人が織りなすミステリー。作家をめざす苦学生が好きだと言い、映画の中でくり返し言及される作家がフォークナー。フォークナーが作中で言及されるのは、『バーニング』の原作である村上春樹の短篇「納屋を焼く」通りなのだが、『バーニング』が原作「納屋を焼く」とは全く異なる結末を描いているのを見ると、テーマである暴力のありようについて、イ・チャンドンのほうがより意識的であり、フォークナーへの言及も村上春樹が意図していた以上のものが込められていたのではないか。

 そんな思いから手に取った『フォークナー短編集』は、暴力の研究と副題をつけなくなるほど様々な形の暴力にあふれていた。「嫉妬」「赤い葉」「エミリーにバラを」「あの夕陽」「乾燥の九月」「孫むすめ」「クマツヅラの匂い」「納屋は燃える」の九篇が収録されている。

 抑えきれない負の感情の暴発(「嫉妬」)、アメリカ先住民の首長の死に伴う殉死を運命づけられた黒人奴隷の逃亡と追跡(「赤い葉」)、北部人に裏切られたエミリーの復讐(「エミリーにバラを」)、うわさ話をうのみにした白人たちによる黒人に対するリンチ殺人(「乾燥の九月」)、孫娘に手を出されてもなお自分が仕える主人に従順であるかに見えた貧困白人の怒り(「孫むすめ」)、気に入らない者はみな自分への敵対者とみなし、放火をくりかえす男(「納屋は燃える」)など、単に個人の感情に由来する暴力だけでなく、フォークナーが繰り返し描いたアメリカ南部(舞台は架空の町ヨクナパトーファ郡ジェファソン)の保守性や構造的な問題として、あるいは天災のような避けがたい運命として数々の暴力が形にされる。

 今回久しぶりに読んで気になったのが、理屈ではどうしても説明しきれない出来事が意図的に描かれ、それがフォークナーの短篇に不思議な真実味を与えていることである。フォークナーは説明的な叙述をしないので、描かれる出来事の輪郭は読み進むにつれてゆっくりと明らかになっていく。それでも最後まで何を意味するのかわからないところが残る。というか、フォークナーは明らかに理屈では説明できないものを描こうとしているのである。

 「あの夕陽」と「クマツヅラの匂い」を例に見てみよう。

 まず「あの夕陽」。黒人のナンシーは白人家庭の洗濯や台所仕事を請け負っている。彼女は夫の暴力に怯えているが、夫は不在でお腹には夫以外の子を身ごもっている。夫のジーズアスが自分を殺しに来ると信じているナンシーは、洗濯女として出入りしている白人一家の子供たちを自分の家に連れて帰り、それで自分の身を守ろうとする。状況を把握していない子供たちの無邪気さと帰りたがる子供を引き留めるナンシーの必死さが対比的に描かれる。わからないというのは、ナンシーの口にする「例の音」だ。

 

ジーズアス」とナンシーはいった。それは「ジイイイイイイイイイズアス」というふうに聞こえ、やがて、マッチかロウソクのように消えてゆくのだった。(「あの夕陽」)

 

 この夫の名前が「ジーザス」に通じていることは、作品の中で子供たちも言っていることだが、ぼくがここで言いたいのは、語り手が「例の音」というナンシーがたてる声のことだ。フォークナーはくり返しこの声に言及する。それはまるで無意識のうちに彼女の恐怖感の高まりとともに漏れてくる叫びであるかのようだが、感情や表情を欠いた「音/声」なのであって、それを聞く白人の子供たちの父親を「エイッ、畜生、またはじまったか!」などといらだたせるのである。

  声でも音でも歌声でもない、あるいはそのどれでもありうる黒人女の「ジイイイイイイイイイズアス」が「ある夕陽」という短編が提示する構造や意味の層を突き抜けていく。フォークナーという作家がすごいのは、こういうところだと思う。明らかに理屈を超えたものがここに描かれている。

 

 次に「クマツヅラの匂い」。この「理屈を超えたもの」が作品の中で見事に生かされているのが「クマツヅラの匂い」である。父親であるサートリス大佐が撃ち殺され、サートリス家の当主になった息子ベイアードが血で血を洗うサートリス家の歴史をいかにして断ち切ろうとしたかが描かれる。

「クマツヅラの匂い」も共通の作中人物が複数の作品に登場するいわゆるヨクナパトーファ・サーガに連なる作品で、舞台となる19世紀後半。文庫の訳者龍口直太郎のあとがきによれば、当時のアメリカ南部のモラルとして父親が殺されれば、息子がその仇をうつのは当然とみなされていたという。

 しかし、ベイアードは父親の仇をうたない、その暴力の連鎖を断ち切ることを固く決意して実家に足を踏み入れる。出迎えたサートリス大佐の妻(ベイアードの母親ではなく、8歳年上の従姉妹にあたる。しかも二人は恋仲になっていた)はベイアードの手にキスした瞬間、ベイアードの決意のすべてを知り、復讐を期待していた彼女は絶望に陥る。

「女というものは賢いものだから―唇か指かで、軽く一ふれしさえすれば、思っていることを(…)単刀直入に相手に伝えてしまうのだ」(「クマツヅラの匂い」)

 サートリス家の歴史と複雑な人間関係が入り組み層をなす作品において、SF小説にでも出て来そうな瞬間。相手の手に触れただけで、相手の思考が言葉ではなくビジョンとして伝わってしまうという理屈を超えた出来事がさらっと描かれる。

 こうした超自然的な瞬間が作品全体を覆う南部の因習や閉鎖性の重苦しさを貫く。そして、「理屈を超えたもの」が暴力の連鎖を断ち切るというベイアードの決意に真実味を与えている。それはフォークナーが描こうとしている多層的な世界を完結させる、同時に枠組みを突き抜けてしまう不思議な最後のピースなのだと思わずにはいられない。

 

<収録作>

「嫉妬」

「赤い葉」

「エミリーにバラを」

「あの夕陽」

「乾燥の九月」

「孫むすめ」

「クマツヅラの匂い」

「納屋は燃える」