運命の城砦 ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』

  唐突にあなたはこれこれの星回りの下に生まれたんですよとか、あなたの人生の行く手には避けがたい運命が待ち受けているのですとか言われたら、多くの人は一笑に付すだろう。19世紀の近代小説がビルドゥングスロマンを定型にしていたのは、近代においては、個人は自分の人生を自分で切り開くという課題を背負っているからだ。20世紀に入って、近代的自我の葛藤を描く小説とは異なる、カフカ的不条理の世界や実存主義、アンチロマンなどの方法論や視点が導入された。それらには人間という存在そのものへの懐疑がある。

 ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』を読んで驚いたのは、本書が上にあげた文学潮流とはまったく関わらないものだったことだ。ぼくの乏しい読書経験では、「何これ、こんなの読んだことない」だった。『シルトの岸辺』は、主人公に降りかかる不可避の運命を比喩を駆使した詩的散文で綴る物語だったのである。

 物語の舞台は中世の都市国家を思わせる架空の国オルセンナ。主人公アルドーは中央政庁からの命を受け、監察将校としてオルセンナの東方に広がるシルト海の岸辺にある城砦に赴任する。オルセンナは、シルト海を隔てて対峙する敵国ファルゲスタンと300年もの間名目上の戦闘状態にある。戦争はあくまで名目上で、辺境のシルトでアルドーたち将校たちの任務は沿岸部の哨戒を定期的に行うことぐらい。彼らの無為の日々はいつまでも続くように思われたが、やがて物語は緊張を帯び、運命の歯車は、決して避けることのできない破局へとなだれ込んでいく。

『シルトの岸辺』は、長い時を経て次第に硬直化し、機能不全に陥った都市国家オルセンナの破局(の高まる予兆)を物語の終着点にしており、作中人物たちは、あたかもそこへつがなる糸をたぐるかのようにふるまうのである。

 こうした運命の物語を薄っぺらなものにならないように支えているものが、二つある。一つはグラックの圧倒的筆力による散文だ。前半の乾いた荒野と海のほか何もないシルトでの日々は、薄い霧の中を踏み迷っているような気分にさせられるが、それはグラックの散文が「あたかも~」「まるで~」を多用した独特の文体であることに由来する。

「私たちは何時間ものあいだ、この眠りの土地を横切って進んだ。ときたま灰色の鳥が藺草の中から矢のように飛び立ち、まるで噴水に吹き上げられたボールのように自分自身の単調な叫びのてっぺんでふるえながら、空の高みへと消えていく、浅瀬に乗りあげた霧笛が霧をつらぬいて緩やかに高く低く、大きなふいごのまどろんだような音を響かせる」(「拝命」)

 これはほんの一例だが、読んでいると、どこまでが比喩でどこまでが作中の事実かということを考えるより先にイメージが広がっていく。このような技巧を凝らした美しい散文世界がどれだけの労力をかけて作られていくかということを考えただけでも気が遠くなる。読者は催眠術にでもかけられているように、眠気と緊張感を同時に感じることになる。

 もう一つは作中に描かれる象徴性を帯びた物体だ。その最も印象的な例は言うまでもなくシルトの城砦である。長きにわたるファルゲスタンとの形骸化した対立を象徴する朽ちた城砦は『シルトの岸辺』のもう一つの主人公と言っていい。さらにオルセンナの政界に陰に陽に影響力を行使してきたアブドブランディ家の別荘や、アルドーの幼馴染でもあるアブドブランディ家の娘ヴァネッサとともに訪れるシルト海の孤島など、物語において魅力的な道具立てがそろっている。

 後半、不穏なうわさがオルセンナの各地に広がり、緊張が高まっていくサスペンスは前半の平穏で静謐な世界からは想像もできない。『シルトの岸辺』は稠密な詩的散文と物語を読む楽しみが両立されている稀有な小説である。