過去のかたち レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人(さらば愛しき女よ)』

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 (ネタバレ)ムース(へら鹿)・マロイ。『さよなら、愛しい人』がどんな話だったか忘れてしまっても、たぶん、この怪力の大男の強烈なイメージだけは残るだろう。

 マロイは8年入っていた刑務所を出所するとすぐ、かつての恋人ヴェルマを探すため、女が働いていた酒場に現れた。しかし、店は黒人専用に変わっており、女はいない。逆上したマロイは用心棒の黒人相手に派手な立ち回りを演じ、人殺しまで犯してしまう。マロイは自分の怪力が普通の人間にどれだけの効果を及ぼすかということも、8年という時間の長さが、物事をすっかり変えてしまうのに十分な時間だということも、わからない。

 たまたまその場に居合わせた私立探偵フィリップ・マーロウは、現場から姿を消したマロイの足取りを追う。その後、マーロウはある青年から宝石強盗のグループとの金銭の受け渡しに用心棒として雇われるが、その現場で再び事件が起こる。このマロイの一件とは全く無関係に見える事件によって、事態はゆっくりと動き出す。はたしてムース・マロイはかつての恋人に再会できるのか。

 チャンドラーの小説を読むのは『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』以来、二冊目だが、『長いお別れ』も『さよなら、愛しい人』もいかに過去と決別するかという主題を共有している。過去とは自分の犯した罪のことだと言い換えてもいい。『長いお別れ』では、マーロウ自身が友人であるテリー・レノックスとの別れに直面しなければならなかったが、『さよなら、愛しい人』は、自分の過去を消し去って現在を生きる女ヴェルマが、マーロウの命がけの格闘によって、再び過去と相まみえるという物語になっている。

 どれだけうまく過去から逃げて、うまく偽装した現在を生きているつもりでも、過去は必ず追いついてくる。ムース・マロイの行方を追うマーロウはその過程で賊に捕まって麻薬づけにされたり、ギャングの大ボスがいるらしいギャンブル船に単身乗り込んで行ったりと、依頼されているわけでもない事件に必死に取り組む。用心棒として雇われた事件でしくじったという負い目があるからという見方もできるが、それ以上にマーロウその人に過去という亡霊が乗り移ったかのような不可解ともいえる奮闘ぶりによって、ヴェルマはまんまと出し抜いたつもりでいた過去と対峙することになる。

 その過去というのは、ムース・マロイという怪力の大男で、なんかちょっとなかったことにしていたものが、気が付いたら思いがけないモンスターに成長して現れた、そんな気さえする。レイモンド・チャンドラーは過去のかたちをムース・マロイという異形のキャラクターに形象化したのだ。

 それにしても、さよならを言うのはむずかしい。