忘れるな メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』

 

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

 

 いくつかの偶然が重なって、ぼくがこの本を手に取るまで、ぼくはフランケンシュタインはあの怪物の名だと思っていたし、作者メアリー・シェリーのことも知らなかった。しかし、『フランケンシュタイン』を読み終わった今、自分が漠然と持っていた怪物のイメージは完全に覆された。読み進むのに、こんなに痛みの伴うストーリーだとは想像もしていなかった。本書の副題は「あるいは現代のプロメテウス」。主人公の青年フランケンシュタインを土塊から人間を作り出したギリシャ神話の神になぞらえているわけだが、ぼくなら「心の弱さの研究」としたい。『フランケンシュタイン』は多様な読みが可能な傑作だが、自分が感じた痛みを頼りにこの小説について考えてみたい。(以下、ネタバレ)

フランケンシュタイン』は枠物語の形をとっていて、三重の入れ子構造になっている。外枠をなすのは、ロバート・ウォルトンという北極探検に向かう青年が姉に近況を知らせる手紙で、船が氷に阻まれて動けなくなっているところへやってきた犬ぞりに乗った男を救出したという出来事が報告される。この男こそ、かの怪物を作り出したフランケンシュタインだった。半死半生の男がやがて話ができるほど回復すると、フランケンシュタインが一人称での語りが始まり、さらに、フランケンシュタインの物語の中に怪物自身の一人称の語りが内包されている。

 裕福な家庭に生まれたフランケンシュタインは子供時代をジュネーブで過ごし、やがて大学で学ぶべくインゴルシュタットへと旅立った。大学で日夜研究に打ち込み、大きな成果を上げた彼は、自らの手で物質から生命を作り出す秘密を解き明かす。

「世界の想像以後、賢人たちが研究して願ったものが、今やわたしの手の中にあるのです」大いなる力を我が物にする。これが悪夢の始まりである。驚くほどの力が手中にあれば、当然それを使ってみたくなる。「わたしは人間の創造へと踏み出したのです」

  ところが、フランケンシュタインが作り上げたのは、彼が理想としていた美しい被造物とは似ても似つかぬ恐ろしい怪物だった。「それが完成した途端、美しい夢は消えて、息も止まるほどの恐怖と嫌悪感とで胸がいっぱいになったのです」とフランケンシュタインは言う。完成に2年近くも費やした努力の成果を前にして、この心変わりも解せないが、この後のフランケンシュタインの行動が、この小説最大の問題点だ。

 フランケンシュタインは、自ら作り出した怪物が夜のうちに姿を消しているにもかかわらず、怪物の後を追おうとするどころか、あたかも加害者が犯罪の核心部分を忘れてしまったかのように、その存在自体から目をそらしてしまう。半ば意識的に視界から怪物を消し去ってしまうのだ。

 次に怪物が姿を見せるとき、言うまでもなくフランケンシュタインは、悲劇に直面することになるが、その悲劇そのものと同じかそれ以上に、フランケンシュタインに生じた健忘症による空白が恐ろしかった。リアルで切実なものだった。加害者は常に被害者の存在を忘れようとする。その忘却が被害者の憤りと悲しみを増大させるのである。フランケンシュタインと怪物が加害者と被害者の関係に当てはまるかどうかは、議論の余地があるかもしれないが、フランケンシュタインの行為は、加害者のふるまいそのものと言っていい。

 怪物はフランケンシュタインの故郷ジュネーブに現れると、フランケンシュタインの弟を殺害した。その殺害の嫌疑はフランケンシュタイン家の使用人だった娘にかけられ、裁判の結果、死刑になるが、あろうことか、フランケンシュタインは弟を殺した真犯人が怪物であるという確信があったにもかかわらず、使用人の娘を見殺しにしたのである。

 その後、フランケンシュタインはアルプスの山中で怪物に対峙する。ここで始まるのが怪物自身による孤独な放浪の物語である。巨大な体躯と醜い外見故に人間に迫害され、寂しい山野に身を隠して生きることを強いられた怪物は、フランケンシュタインに自分の伴侶になる女の人造人間を作ることを要求し、その要求を認めてくれたら、二度と人間の前に姿を現すことはないという条件を持ち出して、渋るフランケンシュタインに約束させることに成功するも、フランケンシュタインはまたしても都合のいい理屈で約束を反故にしてしまう。

 このフランケンシュタインの卑劣で無責任な態度の結果は、親友と愛する女性とをどちらも失うということになるのだが、小説『フランケンシュタイン』が提示するフランケンシュタインと怪物の関係性は、ねじれた相似形とでもいうべきものだろう。フランケンシュタインは家柄もよく学問も身に着けた立派な青年だが、内面には自分の生み出した現実と向き合うことができない弱さ、無責任さがある。それに対して、醜悪な外見で人々を脅かす怪物は、繊細で理知的な内面をもっているのである。

 こうした関係性は、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』やオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』などとの類似を指摘することができるが、中でもル=グウィンの『影との戦い ゲド戦記1』は、主人公のゲドが自分の力を過信して名もない影を呼び出してしまったこと、多くの犠牲を伴いながら、ゲドは影を追うはめになったことなど、ストーリーや主題そのものが『フランケンシュタイン』と共通している。怪物に最後まで名前が与えられないこと、フランケンシュタインの命が失われるとともに、怪物もまた、この世から姿を消すことなどは、怪物がフランケンシュタインの影(シャドー)であると考えるとわかりやすい。

フランケンシュタイン』と『影との戦い ゲド戦記1』が異なるのは、作者が用意したラストの違いだろう。ル=グウィンがゲドと影との再統合という決着を用意したのに対して、『フランケンシュタイン』は、怪物を北極といういわば地の果てまで追って、力尽きる。命を懸けても返しきれない借りをフランケンシュタインが背負ってしまったのは、怪物を作り上げた後、彼が半ば故意にかかった健忘症のためである。

「忘れるな」

これがメアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』という大傑作に込めたメッセージだ。

 

(付記)

フランケンシュタイン』と『影との戦い ゲド戦記1』との比較というアイデアは、知人に示唆を受けた。ありがとうございます。