「コミックな小説」の凄み フラナリー・オコナー『賢い血』

 

賢い血 (ちくま文庫)

賢い血 (ちくま文庫)

 

 「私はキリスト教の正統的信仰の立場から物を見る。私にとって人生の意味はキリストによるわれわれの救済に中心をもち、私が世界の中で物を見るとき、私はこのこととの関連において見る」(「訳者あとがき」)

 オコナーの小説を読んでいて、自分はわかってるのかなと不安になる理由の一つはキリスト教に関する知識が決定的に不足していることだ。上のオコナーの言葉は彼女の作家としての立場を明白に表明している。知識がないことに加えて、宗教とかイデオロギーが先行する文学そのものへの不信感もある。まあ、端的に言っておもしろいのかってことだ。

 結論から言うと、『賢い血』は無類におもしろかった。「訳者あとがき」に紹介されている『賢い血』の「序言」によるとオコナー自身がこの小説を「コミックな小説」と呼んでいる。問題はこの「コミック」なる言葉の内実である。オコナーの手紙には『賢い血』の始めの部分を読んで、特に女性たちが不快を感じたという記述がある(一九四九年四月七日)。それに続けてオコナーは書いている。「私はそれを聞いて、うれしく思いました」。このあたりの発言が『賢い血』における「コミック」の意味を考える手がかりになりそうだ。

 軍隊帰りのヘーゼル・モーツ(ヘイズ)は南部の小さな町で《キリストのいない教会》を名乗り説教師を始める。心理描写が極端に少なく、作中人物の行動原理がわかりにくいので最初はとっつきにくいが、次第にそれが宙ぶらりんで不穏な作品全体の空気を醸していることがわかる。ヘイズは信念の人だ。こういうと聞こえがいいが、彼を支配する強い信念以外は何も見えず、何も聞こえない。人と対等な対話を試みることもない。

 ヘイズを見ていて思い出したのは、コーエン兄弟が監督した2007年の映画『ノーカントリー』の殺し屋だ。ハビエル・バルデム演じるあの全く人間味を持たない殺し屋は、ためらいなく人を殺せるだけでなく、殺すかどうかをコイントスの結果(偶然)にゆだねるなど、奴に殺されるのは自然災害のようなものだとさえ感じた。

 ヘイズと『ノーカントリー』の殺し屋は一見対極的に見えるが、彼らはいずれも「人間」というあいまいなものを行動原理の根拠にしないのである。変な話だが滑稽味はそこから生じている。もう少し映画でたとえると、ヘイズの描かれ方はチャップリンではなく、バスター・キートンである。ぼくらはキートンを見て笑うが、『セブン・チャンス』のキートンは転がる大岩を避けようと必死なのだ。

『賢い血』の中で描かれるヘイズと対照的な作中人物がイーノック・エマリーだ。イーノックは寂しがり屋の少年で、説教をしているヘイズになついてくっついてくる。イーノックは己の孤独を間違った偶像で埋めようとする。それは町の寂れた博物館に収蔵されている小人のミイラであり、映画の宣伝に登場したゴリラの着ぐるみである。

 これらのいわば偶像がイーノックにはある種の啓示にも似た輝きを放つが、小人のミイラにしろ、ゴリラの着ぐるみにしろ、それらがイーノックにもたらすのは、絶望的な袋小路でしかない。そうした袋小路でカップルに襲い掛かるイーノックは、やっぱり滑稽なのだ。

預言者》を騙る男を裸にし車でひき殺したヘイズは言う。

「ゆるせないものが二つある」「ほんとうのことを言わないやつと、ほんとうのものを真似するやつだ」

 これはヘイズが自分の気持ちを表明する数少ない言葉だ。オコナーの刃のように鋭いペン先が生み出す言葉は作中人物だけでなく、読者をも容赦なく切り裂いていく。小説を読んで気持ちよくなろうなんて思うなよ、というオコナーのつぶやきが聞こえる。その結果、中庸、妥協、微温といった「人間味」から遠く離れた作中人物たちの「真実」の物語は、一方で究極の「コミックな小説」を形作っている。