かめくんからカメリへ 北野勇作『カメリ』

 

カメリ (河出文庫)

カメリ (河出文庫)

 

  少し遠回りする。『カメリ』を読んでいて思い出したのは、内田百閒の「房総鼻眼鏡」(『第三阿房列車』)の一節だ。

「大きな浪が後から後から打ち寄せて、その砂浜で崩れる。じっと見つめていて、浪は何をしているのだろうと思う。(…)どういう料簡だかわからない」

 これは百閒が房総の海を旅館から眺めたときの感想だ。なんでもないことのようだが、気にかかるらしく東京へ帰ってからもまだ思い出している。

「私はもうこうして帰って来てこうして外の事をしているのに、あの浪は矢っ張り大変な姿勢で、浪頭を振り立てて、大きな音を立てて、寄せては崩れているのだろうと思うと馬鹿馬鹿しい。丸で意味はない。無心の浪と思うのも滑稽である」

 自分が見ているときだけでなく、東京へ帰ってからも房総の浪は浜へ打ち寄せる。当たり前である。房総だけではない。世界中の海で波は浜へと打ち寄せる。世界は自分とは無関係に存在し、その営みは永遠に続く。よく考えると怖い。百閒は「丸で意味はない」というが、そうした自然の営為は人間中心の視点からは都合よく背景として描かれるだけで、必要がないときは忘れられている。百閒の世界は、背景であるべき自然の無意味がいつも彼を脅かす。

 北野勇作の『カメリ』(河出文庫)には、人間が出てこない。もともと『北野勇作どうぶつ図鑑』として書かれた、さまざまな動物たちにまつわる話を一冊にまとめたのが『カメリ』だ。だから、不思議な生き物ばかり出てくるのだが、読み進むにつれてわかってくるのは、『カメリ』の舞台となっている世界は、冒頭に引用した「無意味な」自然の営為だけで成り立っているということだ。

 カメリは二足歩行型模造亀(レプリカメ)。オタマ運河沿いにあるカフェで働いている。カフェのマスターは「石頭」。本人は「ほとんどヒト」だと主張しているが、その頭はシリコンの塊でできている。カメリの同僚は沼地戦闘用に作られた擬人体ヌートリアン。テレビドラマで覚えた「それって、セクハラよ」が口ぐせだ。彼らのカフェには、形はヒトに似たヒトデナシたちがやって来る。ヒトデナシたちは、いつもどこかの工事現場で働いていて、いざというときはヒトデナシ同士が結合して建造物の一部にもなる。

 このように『カメリ』の世界は、かつて人間に作られたらしいものたちが、すでにヒトがいなくなったにもかかわらず、自分たちに与えられた仕事を続けているのである。ヒトはカメリの生まれるより前にどこかへ引っ越したという。今カメリたちがヒトの姿を見ることができるのは、テレビの中だけだ。ヒトはテレビという幻影の世界に引っ越して、カメリたちの世界にあるのは、団子でもケーキでも本物ではなく、「もどき」であり、「のようなもの」だ。

 では、本物でなければニセモノの世界なのだろうか。その問いに答えるためには、北野勇作が2001年第22回日本SF大賞を受賞した傑作『かめくん』にまでさかのぼる必要がある。『カメリ』にもちらっと登場するかめくんも模造亀(レプリカメ)だが、小説『かめくん』と『カメリ』の決定的な違いは、『かめくん』の世界にはヒトがいるということだ。かめくんは模造亀(レプリカメ)として人間の世界で、工場でフォークリフトを操り、クラゲ荘なる下宿屋に部屋を借りている。ときに「なんだ、かめか」と言われながら、けなげに働くかめくんがぼくは大好きで、ザリガニイとの戦いでは手に汗握り、図書館のアルバイト・ミワコさんに恋するかめくんを応援した。そして、かめくんにとってよいものとは「かめににたもの」なのだ。

 本物かにせものかというフィリップ・K・ディック的主題は『かめくん』のもので、『カメリ』のものではない。人間の中でヒトではないものとして暮らすかめくんは、意識の表面はともかく、自分とは何かという古典的主題を抱えざるを得ない。戦争の主体は何かという点では、伊藤計劃の『虐殺器官』にも通じるといっていい。いずれにせよ、「人間」が出てくる小説では、自我意識が問われる。あるとしても「自然」は背景にすぎない。

『カメリ』のすごいところは、カメリをはじめとする作中に登場する動物キャラは安易な擬人化ではないということだ。カフェのマスターとヌートリアン、ヒトデナシたちの和気あいあいとしたやりとりであいつらは単に擬人化された動物キャラにすぎないと思って読んでいると、時にガツンとやられることがある。それが端的に表れているのが、「食う-食われる」という自然界の法則に彼らが従っていることだ。

 カメリは産み落とした自分の卵を「オムレツ」としてカフェでヒトデナシたちに提供するし、運河を行き来するオタマジャクシのような生き物メトロの卵を発見したカメリはためらいなくそれを食べてしまう。「おいしそうだったから」

 中心と背景という表現を使うなら、『カメリ』の世界はかつて中心だったヒトが限りなく遠い背景へと後退して、背景だった自然が物語の中心になっている世界なのである。そこではもうヒトによる世界の区分けもあいまいになっていて、うっかりすると「陸」は陸であることを忘れ、泥の海に戻ろうとするし、「海」だって、果てしなく泥が広がっているだけなのである。そこにはもう「本物」も「にせもの」も存在しない。存在するのはそういう世界を生きるカメリやヌートリアンやヒトデナシたちであり、ヒトの営みとは無関係の世界、百閒を「丸で意味はない」と不安がらせる自然の世界である。

 でも、ちょっと待て。そもそもヒトには意味なんかあるのか。ヒトと泥の海に何のちがいがあるのか。ああ、もうヒトなんていなくても、カメリたちがあんなに楽しそうにしてるのを見てたら、それでいいって思えてきたよ。

(2月13日加筆・訂正)