今村夏子は予定調和を知らない 今村夏子『星の子』

 

星の子 (朝日文庫)

星の子 (朝日文庫)

  • 作者:今村夏子
  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: 文庫
 

 (ネタバレ)今村夏子の小説を読むということは、不安と向き合うことである。朝日文庫版『星の子』に収録されている小川洋子×今村夏子の巻末対談「書くことがない、けれど書く」の中で、小川洋子は以下のような発言をしている。

「今村さんの小説を読むということは、『星の子』の「わたし」やあみ子の声を聞いているという感じなんです。(中略)それは書き手が語り手の目に映ったものしか書かないということに徹しているから、語り手の声になって届いてくると思うんです」

 小川洋子の言っていることはすごくよくわかる。ただ、これは相当肝の据わった読み手である。『こちらあみ子』を読んだときも、今回の『星の子』も語り手の「声」に耳をすませばいいんだと覚悟を決めるまでに、なんだかよくわからない語り手とともに小説世界を進んでいく不安がまずやってきた。その不安の由来を考えることが、今村夏子の小説を読む最初の作業だと思う。

『星の子』という小説の奇妙なところは、客観的事実と語り手の認識・感覚の決定的な乖離である。サスペンス小説なんかに「信用できない語り手」というのがあるが、『星の子』の「わたし」(中学二年生・林ちひろ)はそういう知的な取捨選択を行っているわけではない。あくまで自分の感覚に正直に両親をはじめとする世間を見ているにすぎない。それが読み手の感覚と、あるいは、小説内の客観的事実と乖離しているため、読み手は(というか、少なくともぼくは)不安になる。一見、ちゃんとしているのに、どこか決定的に歪んだ部屋にいるみたいだ。

 小さい頃から体が弱かったちひろを助けたい一心で、ちひろの両親は怪しげな宗教にかかわりを持つ。「金星のめぐみ」と称する「宇宙のエネルギーを宿した」水がたまたま(?)ちひろの皮膚炎に効いたことから、ちひろの家族はその水を浸したタオルをいつも頭にのせて生活するようになった。母の弟である雄三おじさんがいくら説得しても、ちひろの姉であるまーちゃんが家出しようとも、そればかりか、両親は仕事も教団が紹介したものに転職し、引っ越しのたびに部屋が狭くなる。一家は窮乏の一途をたどり、もはや崩壊寸前なのである。

 しかし、語り手であるちひろは、こうした小説内の客観的事実を語りながら、それを悲惨な状況として受け止めていないようなのだ。ちひろのあこがれの南先生がちひろを自宅近くまで送ってくれたとき、たまたま公園に居合わた、タオルを頭にのせたちひろの両親を見た南先生は、ちひろの両親を変質者扱いする。そのとき、ちひろの世界の組み換えが起こってもよかったのだ。組み換え? そんな生易しい言葉ではなく、崩壊と言っていいかもしれない。

 はっきり言ってしまおう。読者は(少なくとも一読者であるぼくは)、親身にちひろの家族のことを考える雄三おじさんや、親戚のしんちゃんの家族ではなく、南先生なのである。そして、明らかにあの「ヘンな」人たちを断罪してもいいと考えている。それは、あみ子をのりくんが殴ったのと同じ理屈で、こんな一家が幸せなはずがないから、早く不幸になれと小説のクライマックスで起こるはずのカタストロフを今か今かと待ち望んでいるのである。今村夏子の小説を読むことは、自分の中の暴力性に直面することでもあるのだ。

 小説の中にも暴力の影は常にある。無邪気に語られはするが、教団の若手リーダー格の海路さんには詐偽や拉致監禁の容疑で被害届が出されているといううわさがある。小学生のときは暗い性格でいつも部屋の隅にいた春ちゃんが中学に入って別人のように明るくふるまうようになったのも、催眠術ができるという昇子さんに何かされたのかもしれない。ちひろの両親に最初に特別な水のことを紹介した落合さんの息子は、ちひろを呼び出して、性的暴力まがいのことをする。

 条件はそろっている。もうカタストロフを待つばかり。読者は舌なめずりをする。その予兆に応えるように教団の合宿に参加したちひろの一家は、合宿先に着いてから、夜すべてのスケジュールが終了してからも一度も互いを目にすることなく、ちょっと心配になったちひろも両親もお互いを探すのだが、行き違いになるのか、どうしても会えないという場面がかなり長く続く。悪い予感。

 しかし、予感は予感でしかなく、一家は会うことができて、見晴らしのいい高台で星を見るという場面で幕を閉じる。はぐらかされたのだろうか。いや、ちがう。ぼくはこの場面が怖くてしかたがなかった。一家三人が寒空のもと、シートを敷いて流れ星を見る。「よーし、みんなで流れ星を見るまでは部屋に戻らないぞ」と父親が言う。しかし、三人が同時に同じ流れ星を目にすることがなかなかできない。

 この場面をどう理解したらいいのか、ぼくにはわからない。今村夏子は一読者としてこの場面を読んだら「この家族にとって一番幸せな終わり方だと感じると思います」(前出対談)という発言があるが、あたかも何もない宇宙空間を家族だけが漂っているかのような孤独に家族の幸せがある、そんな幸せなのだ。言い換えると、世間はこの家族を迫害する、ということかもしれない。やっぱり今村夏子の小説にあっては、世間(読者)が暴力を振るおうと待っているのだ。しかし、今村夏子がその期待に応えることは決してない。今村夏子は予定調和を知らない作家なのだ。