ライブ感と象徴性 石川淳『焼跡のイエス・処女懐胎』

 

  アンソロジーの楽しみの一つは、未読の作家と出会うことだ。澁澤龍彦編『暗黒のメルヘン』で初めて石川淳の短篇「山桜」を読んだ。それがきっかけで新潮文庫の短編集を読んでみたが、私小説風のものから幻想味、ファンタジー色の強いものまで、収録作はバラエティーに富んでいる。

「山桜」は、生活に窮した画家が金策のため遠縁の男を訪ねる話だが、その男の屋敷に至る過程は、思い出したくない記憶をたどっているようだし、男の屋敷はぼんやりとした記憶の沼に沈んでいるかのようだ。当然、その沼の底にはある種の罪障感が潜んでいるのだが、ぼくはその雰囲気からポーやカフカの短篇を連想した。

 石川淳の短篇作法について、文庫解説の佐々木基一は次のように書いている。

石川淳氏の『短い小説』は、いわば『ペンとともに考える』方法によって書かれるもので、すでに過ぎ去った出来事を書くかわりに、現在進行中の出来事を書く、いや、作者がペンを走らせるにつれて出現してくる可能性としての出来事を書くことに主眼を置いています」(新潮文庫解説)

 そうした方法が現実になされていたかはともかく、確かに石川淳の短篇には、ライブ感のようなものが感じられる。佐々木基一は上の引用に続けて「そういう不確定の状態における可能性を、現実そのものの進行よりも一足さきに先取りすることを目的とした小説が、ある種の象徴的な、あるいは幻想的なスタイルをとって出現しなければならないのは、至極理の当然でしょう」と書いているが、本当にそうだろうか。

 ライブ感と象徴性が本短篇集に収録されている作品の特徴だとして、不確定性の行きつく先が象徴なのではなく、不確定性がそのままの持続に堪えられないために起こる結び目のようなものとして機能しているのではないだろうか。

「焼跡のイエス」は、ボロをまとい、皮膚病を病んだ少年が強烈な悪臭を放ちながら戦後の闇市に現れるが、語り手の「わたし」はその姿に一瞬キリストを見る。こういう言い方をすると身もふたもないが、ペンはどこかのタイミングでこうしたヴィジョンが現れるのをあらかじめ待っている感がある。「山桜」はラストの屋敷の男の不可解なしぐさによって、作品にライブ感が持続しているが、「焼跡のイエス」はキリストという象徴性によって、閉鎖的な空間に変じている。

 同様のことは、「処女懐胎」でも起きている。「処女懐胎」は、ピアノ教師である中年男と大学生の青年から同時に求愛される女学校を卒業したばかりの貞子に起こる奇跡を描いている。文体の面からみると、明治以降の近代文学を鏡花から一気に駆け抜けるかのようなおもしろさがある。長くなるから引用は控えるが、冒頭の文体などは鏡花そのものと言っていい。同時に二人の男から求愛されるというと聞こえがいいが、傲慢な男たちからの強引な誘いは、貞子にとってハラスメントか受難のようなものだ。受難の者に起きる奇跡は「焼跡のイエス」と同じ構造である。

 なぜこうした象徴性が必要なのだろうか。このことを考えてしまうのは、先日たまたま林芙美子の「骨」という短篇を読んだからだ。夫は戦死、病弱の父親と弟、幼い娘を養うために、主人公の女娼婦になる。身を落とすという表現が使われていたと思う。いずれにせよ、受難、あるいは、運命を甘受する人間の姿がそこにある。しかし、「骨」においては、主人公の道子は聖性や象徴性を帯びることはなく、作者の筆は最後までリアリズムを貫いている。

 そこにイエスを見てしまう、あるいは、処女懐胎という奇跡を現出させてしまう石川淳は自身の不安や罪障感に形を与えたかったのかもしれない。しかし、それでは焼跡の浮浪児の「体験」、二人の男からハラスメントまがいの求愛を受ける貞子の「体験」を作者が奪って、かりそめの「救済」を与えているにすぎない。作中人物の「体験」は作中人物のものである。「骨」の道子は救われないが、奪われることもない。

「変化雑載」では、元教師で今は闇の酒を売る女が描かれるが、女は語り手の男とともに酒を飲んだあと、闇の中で男に「救って、救って」とささやきかける。石川淳は、もしかするとこの手の「ささやき」が聞こえるのかもしれない。女は月光を浴びながら、空の高みへと昇っていく。「救済」という意味づけにより、作品が閉じてしまうのも残念だが、それよりなぜ作者にそんなことができるのか、それがぼくにはわからない。

 終始、主人公の無意識の世界で展開するかのような「山桜」や、ファンタジーという枠の中で飄逸味を発揮した「張柏端」などは、象徴の瞬間が訪れず、ライブ感が持続している。ぼくの好みはこちら。作品世界という小宇宙が今も続いている気がする。

<収録作>

葦手

山桜

マルスの歌

張柏端

焼跡のイエス

かよい小町

処女懐胎

変化雑載

喜寿童女