入れ物としての古典 太宰治『お伽草紙』

 

お伽草紙 (新潮文庫)

お伽草紙 (新潮文庫)

 

  恥ずかしいという感情が太宰治の基調を成している。生きること、存在することそのものが恥ずかしい。その恥ずかしさをキャラ化したような『人間失格』などの作品が書かれる一方で、『お伽草紙』をはじめとする古典に取材した作品も多い。後者は『西鶴諸国ばなし』や『御伽草子』の翻案物であり、恥ずかしがる作家太宰は登場しない。

 古典という容量の大きい入れ物を得て、言い換えれば、古典の世界を隠れみのにして、恥ずかしがる作家とは別人のような自由でのびのびとした、ときに辛辣な作品世界を形作っている。

 新潮文庫の『お伽草紙』に収録されている作品の中でも抜きんでておもしろいのが「盲人独笑」という短編だ。江戸時代の終わりから明治期にかけて活躍した盲人の筝曲家葛原勾当が遺した『葛原勾当日記』がもとになっている。

「これは必ずしも、故人の日記、そのままの姿では無い。ゆるして、いただきたい。かれが天稟の楽人なら、われも不羈の作家である。七百頁の『葛原勾当日記』のわずかに四十分の一、青春二十六歳、多感の一年間だけを、抜き書きした形であるが、内容に於いて、四十余年間の日記の全生命を伝え得たつもりである。無礼千万ながら、私がそのように細工してしまった」

 太宰はこのように「あとがき」に書いている。どこが「細工」されているのかも、「細工」の意図も明かしている。「ただならぬ共感を覚えたから、こそ、細工をほどこしてみたくなったのだ。そこに記されてある日々の思いは、他ならぬ私の姿だ」

 本文から立ちのぼる葛原勾当のいらだちや不如意に太宰のそれが重なる。決してそれと名指しされているわけではないが、やはり「盲人独笑」には太宰の「恥」の印がつけられている。ただそれがあからさまではないだけ、作品に奥行きがある。太宰による種明かしは、日記が葛原勾当個人の手になるものだからであるが、『聊斎志異』『西鶴諸国ばなし』『御伽草子』といった古典を下敷きにした場合は、さらに自由奔放に想像力を巡らせている。

 太宰の「お伽草紙」は「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」があるが、中でも「カチカチ山」の狸(中年男)のいやらしさと兎(少女)の冷酷非情の対比、「舌切雀」の雀の可憐さ、「浦島さん」のSF的海底描写など、大胆で奔放な太宰の姿は、「恥ずかしがる作家」の影も形もないと言っていい(勝手な想像だが江國香織の『ぼくの小鳥ちゃん』は太宰版「舌切雀」にインスパイアされているのではないだろうか)。

 古典がすばらしいのは、やはりその容量の大きさだと思う。生きづらさを抱えた天才が、その世界に身を預け、それに依拠した形で古典の世界を再創造するとき、逆説的だが、作家太宰治は自分を忘れ、同時に最も自分を(自分の書きたいことを)表現できたのではないだろうか。太宰はきっと恐ろしく純情なのだ。

<収録作>

盲人独笑

清貧譚

新釈諸国噺

 「貧の意地」「大力」「猿塚」「人魚の海」「破産」「裸川」「義理」「女賊」「赤い太鼓」「粋人」「遊興戒」「吉野山

竹青

お伽草紙

 「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」