「ルール」と「練習」の効用 アゴタ・クリストフ『悪童日記』

 

  体験をどのように語るか。それは現実に対する自分の立ち位置を決めることにほかならない。アゴタ・クリストフの『悪童日記』はこの点について、戦略的でありながら、同時に誠実でもある小説なのである。

 第二次世界大戦が激しさを増す中、双子の「ぼくら」は〈小さな町〉のおばあちゃんの家に疎開してきた。お母さんは「ぼくら」をおばあちゃんの家に残して姿を消した。人々はおばあちゃんを「魔女」と呼び、おばあちゃんは「ぼくら」を「牝犬の子」と呼んだ。魔女は汚らしく、いやなにおいがした。魔女は「ぼくら」が仕事をしないと決して食べ物をくれなかった。こうして「ぼくら」は日々の糧を得るため「労働」をするようになる。こうして「ぼくら」とおばあちゃんの共同生活が始まった。

 上記のような出来事を記述しているのは『悪童日記』(原題:Le grand cabier/大きなノート)というタイトルからもわかるように、「ぼくら」のノートに記された作文である。双子は学校に行かないが、自分たちで勉強することにして、「作文」も書く。彼らの作文は、きわめて単純なルールによって成り立っている。すなわち「作文の内容は真実でなければならない」というルールだ。このルールにより、比喩的表現、感情、価値判断は厳格に排除される。たとえば「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことはできず、「人びとはおばあちゃんを〈魔女〉と呼ぶ」と書くことは許されているというわけだ。

悪童日記』はすべて双子がノートに書き記した作文であるという設定であるため、『悪童日記』という小説世界からは一切の感情表現や価値判断がはじめから排除されていることになる。最初に本書が出来事に対して「誠実」だと書いたのは、このためだが、ことはそう単純ではない。一方でそれは戦争というあまりに過酷な現実を記述する作者の戦略でもあるからだ。

小説のはじめに「体を鍛える」「精神を鍛える」「乞食の練習」「盲と聾の練習」「断食の練習」といった章がある。双子たちは心や体の痛みに耐え、世の中を見る準備運動をしている。人々は「ぼくら」にこんな言葉を投げかける。「〈魔女〉の子!」「淫売の子!」こうした言葉の暴力性を「練習」で慣れっこになるまで繰り返すことで和らげることができる。

「ルール」と「練習」は、彼らが世間に出ていくことを可能にするだけでなく、世間から彼らの内面を守る防具の役目を果たしている。後半、まるでジェットコースターのように過酷な現実が彼らを待ち受けるが、そうした出来事を彼らが生き延びることができたのは、彼らの感情が「練習」によって摩耗したり、麻痺したりしたのではなく、心の奥底に守られていたのだということが、司祭館の若い女中に起こった出来事から推測できる。

 ハヤカワepi文庫版の訳者解説によると、著者アゴタ・クリストフは子供時代というものこそが『悪童日記』のテーマだと言っているということだが、おそろしく残酷で純粋なものが、双子の行動原理の中にある。彼らはあたかものちに起こる過酷な運命を予期していたかのように「ルール」と「練習」で外界を観察し、内面を守ったのである。守られたのは、「子供時代」だったと言ってもいいだろう。その事実は本書の最大の問題点と言っていい「ぼくら」という人称も示唆している。

双子がどれだけ精神的近似性を持っているにしても、こうした人称がつねに可能になるとしたら、それは双子が一心同体であったというより、お互いに他がもう一方に隠れていたからだといったほうがいいかもしれない。もうそろそろはっきり言っていいだろう。「ぼく」といった瞬間に押しつぶされてしまうほどの悲しみと憎しみを彼らは背負わさされていた。怖かった。寂しかった。泣きたかった。けど、「ぼくら」はそうしなかった。「ぼくら」という人称がそうさせなかった。

だから『悪童日記』が、二人が別々になるところで終わるのは、当然のことなのだ。残酷で純粋な子供時代が終わったのである。本書には続編『ふたりの証拠』と『第三の嘘』があるというが、「孤独と悪の問題が主要テーマ」(訳者あとがき)となるのもうなずける。