死者の自律性 いとうせいこう『想像ラジオ』

 

 2011年3月11日に起こった東日本大震災は東北を中心に未曽有の被害をもたらした。今考えるとあの地震を境に日本は大きく変わった。直接災害に見舞われなかった日本人もひどく精神的ダメージを受け、その影響は現在に至るまで続いている。変化を恐れ、不都合な現実に目を背けるようになった。その結果が当時の民主党政権の後を受けて誕生した安倍政権だ。史上最悪と言っていい安倍政権が2012年12月から8年以上も続いたのは、テレビをはじめとする大手メディアがいかにも安倍政権が仕事をしているように見せかける聞こえのいい報道ばかりしていたせいだ。しかし、視聴者はそんなものは嘘だとわかっていたと思う。嘘だとわかっていながら、その嘘を信じ込もうとしていた。

 震災についてはもう一つ苦い思い出がある。教師をしている僕はあの日学期末の最終日を終え、翌日から春休みを控え、気持ちが軽くなっていた。地震のニュースは教員室で見た。見たものが信じられなかった。ただただ怖くて、地震のニュースをきちんと受け止めることができなかった。夕方当時の彼女に電話をかけ、明日から春休みが始まるという話をしたと思う。彼女は一言「遠いね」と言って電話を切った。

 僕は何の話をしているのかというと、いとうせいこうの『想像ラジオ』のことだ。

 「こんばんは。

 あるいはおはよう。

 もしくはこんにちは。

 想像ラジオです。

 こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中だけでオンエアされているからで…」

 DJアークと名乗る男がどこかで始めた「あなたの想像力の中だけでオンエアされている」ラジオ放送、それは死者からの声だ。その声が聞こえる人もいれば、聞こえない人もいる。聞こえないことを気に病む人もいれば、そんなうわさをすること自体不謹慎だという人もいる。これはかなり難しい問題だ。部外者が知りもしないで口出しするなという批判はいかにもありそうなものだ。震災で多くの人が亡くなった。小説では東京大空襲や広島の原爆にも言及がある。いずれも多くの人が殺された。その死者は誰のものなのか。近親者か、被災地の方々か、それとも日本という国の同胞たちか。そんな問いに答えはない。

 小川洋子ナチスユダヤ人虐殺をテーマにした小説を書いている。以前、なぜ日本人である小川洋子がそんなテーマで小説を書くのか、そこに内的必然性はあるのかというようなことを言ったら、ぜんぜんおかしくないと反論されたことがある。今では僕自身も全く違和感はない。しかし、他人に口出しされたくないという発想やこの問題に関して〇〇は部外者だといった偏見がだれかの心の中にあってもふしぎではない。

 いとうせいこうの『想像ラジオ』が問うているのは、「死者はだれのものか」という問いそのものの無効性だ。なぜなら語っているのは死者なのだから。様々な状況下で命を落とした人々には言いたいことがたくさんある。大事なことは、それは生者の事情とは関係ないということだ。たぶんみんないっぱいしゃべってる。死者は死者の自律性をもってそれを行っているのだ。

 作中、Sさんと呼ばれる作家は書くことによって亡くなったかつての恋人と会話を交わす。『想像ラジオ』はこの会話に第四章まるまる一章分を割いている。重要なパートであることは間違いないが、そのSさんにはDJアークの声は聞こえない。それは亡くなった恋人との会話を書くことによって想像することと、DJアークのラジオ放送は別次元にあることを示している。

 アニメ『この世界の片隅に』はいろいろショックを受けた映画だが、実は一番ショックを受けたのはエンドロールだ。爆弾により失われたすずさんの右腕がそれ自体一個の生き物のように生き生きと動き回り、絵を描いている。ああ、すずさんの右腕は死者となって、すずさんとは関係なく自律性を獲得し、今第二の生を送っているのだと思った。それはとても楽しげだった。

 矛盾した言い方をするようだが、すずさんの右腕もDJアークのラジオ放送も同じ死者の生だと考える。それを感じることができるかどうか、そんなことは些末なことであって、それを信じることができるかどうか、そして、その自律性を尊重することから、何かからの回復がありうるのだと思う。そういい意味で、僕はこの10年、あまりにも臆病で、想像力に欠け、狭量な10年を生きてきた。