物語と意識の果て 伊藤計劃『ハーモニー』

(ネタバレ)昭和が話題になることがある。戦前の話ではなく、五十年ほど前のこと。電車の中でタバコが吸えたとか、トイレが汲み取り式だったとか。セクハラ、パワハラみたいな言葉も普及していなかったとか。今は除菌スプレーをところかまわずまき散らし、トイレがおしりを洗ってくれる。社会は確実に心身ともに清潔で健康に向かっている。新型コロナウイルスの感染拡大で、この流れはさらに加速した。

〈大災禍〉と呼ばれる大虐殺時代後に作り出された超健康社会を描く伊藤計劃の『ハーモニー』はこうした社会が指向する先を可視化した。ジョージ・オーウェルの古典的ディストピア小説1984年』やハクスレーの『すばらしい世界』(本文に言及あり)などの延長線上にあって、人間の主体性を問う『虐殺器官』の「ある種の続編」(伊藤計劃)ともなっている。

〈大災禍〉後の統治機構は国(政府)ではなく、医療合意共同体いわゆる「生府」で、「生府」の構成員は成人になると人体の恒常性を監視するWatchMeを体内に取り入れる。さらに個人用医療薬精製システム(メディケア)が作る物質によって、世の中からあらゆる病気が消え去った。

 御冷ミァハは言う。

「むかしはね、そういう何千って小さな病気が人体には溢れてたんだ。誰でも病気にかかった。たった半世紀前のことだよ」

 御冷ミァハは特別な女の子だった。霧慧トァン(語り手「わたし」)、零下堂キアンにいつも危険な危険な思想を吹き込んだ。「わたしたちはありとあらゆる身体的状況を医学の言葉にして、生府の慈愛に満ちた評議員に明け渡してしまうことになるのよ」「自分のカラダが、奴らの言葉に置き換えられていくなんて、そんなことに我慢できる……」「わたしは、まっぴらよ」

 奪われている。奴らの好きにはさせない。問題は奪われているのが、「生」そのものであるということだ。ミァハがトァンとキアンに持ちかけたのが、「公共物としての体」を取り戻すための自殺である。そして、御冷ミァハは死んだ、はずだった。トァンとキアンは生き残った。

 大人になった霧慧トァンは世界同時自殺事件の捜査を担当する世界保健機構の螺旋監察官として、御冷ミァハと対峙することになる。世界同時自殺事件では、六千五百人以上の人間が実に様々な方法で自ら命を絶った。これは警告だった。今や全世界WatchMeに繋がれた人々が人質に取られている。そして、犯人グループは「一週間以内に誰かひとり以上を殺すこと、それができなければあなたの命を奪う」と要求してきた。

 これに対する対処法としては以下の三つが挙げられている。

 誰かを殺して生き延びるか/誰も殺さずに死ぬか/或いは犯人の主張そのものを信じないか

 犯人グループがボタン一つで多くの人間を自死に追いやることができる以上、選択肢は前の二つに絞られる。ここに『ハーモニー』という小説世界で奪われていたものが露になる。すなわち、生きることと殺すことは同義であるという事実である。

 しかし、伊藤計劃はさらに先に進もうとする。この混乱の首謀者がWatchMeの開発者で父である霧慧ヌァザによって救われ、行動を共にしていた御冷ミァハであったことを突き止めた霧慧トァンはついにチェチェンの山岳地帯で旧友と再会することになる。御冷ミァハの目的はかつての大災禍のような混乱を引き起こすことにより、WatchMeを通じて人間の身体監視だけでなく、意識そのものを奪うことだった。かつての大災禍のような虐殺が起こる前に、権限をもつ〈次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ〉の老人たちがヒトの脳から意識を奪うボタンを押すだろうと考えたという。

「『わたしはわたしである』という鏡写しの意識こそが人間の尊厳だっていう主流派」と「完成されたシステムのなかで人間の脳だけが取り残されている、意識なんか不幸になるだけ、さっさとうっちゃるべきだっていう異端」

 かつてシステムに自身を奪われまいとして自殺を企てた少女は、方向を大きく転換し、システムに適合せず苦しむ人がいるなら、その苦しみの元である意識を消し去ろうとしたのである。大きなものとの合一による個の喪失で新世界を作り出すという発想はSFにはあるものらしく(宗教だってそうだが)、今思いつくのは、グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』、アニメ『新世紀エバンゲリオン』もそうだ。もっと言うなら、ゾンビと戦うのが人間なのか、それともさっさとゾンビになっちゃいな、そのほうが楽だぜということなのか。

 どうしても二者択一的な発想になってしまうのだが、『ハーモニー』には第三の選択肢もさりげなく提示されていた。WHOの螺旋監察官の職に就き、健康に関する事案の監視という職業にもかかわらず、WatchMeを無効化するアプリをインストールし、世界各地の紛争地帯で、超健康社会が禁じた酒やタバコをやる霧慧トァンの生き方である。霧慧トァンのような隙間に生きる人物がいなければ、物語は完成しない。彼女が『ハーモニー』の語り手であるのは、当然のことであり、同時にテクストがetml1.2で定義されている意味も最後に明かされる。物語の内容とは別に、霧慧トァンが父、そしてかつての親友との対峙という古典的行動原理を持っていなければ、この物語は小説ではなく、哲学書になっていただろう。彼女の行動原理が「意識」なのだとしたら、そして「生きる」ということだとしたら、そういうものがきれいに消滅した意識の果てというのは、おなかに大きな空洞ができたような感じがするな。