記録する その2 ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』

 

「序文」にあるように15年間に渡って麻薬中毒だったウィリアム・バロウズは「病とその譫妄状態について詳しい記録」を取っておいたというが、その文学的あるいは反文学的記述、それが『裸のランチ』である。タイトルの考案者はバロウズらとともにビート・ジェネレーションを代表するジャック・ケルアック。ケルアックは『路上(オン・ザ・ロード)』を執筆する際、タイプライターの用紙交換を嫌って、長くつなぎ合わせた用紙を使用し、執筆時の即興性を大事にしたという話があるが、バロウズの場合さらに過激で解説(山形浩生)では「雑多なセクションがいい加減な順番で印刷所にまわされ、ゲラができた時点で構成を考えるはずだったが、その出鱈目な順番が『なんとなくいい感じ』だったのでそのまま使った」というエピソードが紹介されている。

 ストーリーらしいストーリーはない。はじめからそういうものを書こうとも思っていないことは上のエピソードからも明らかだが、いくつかの傾向はある。

1.麻薬中毒者の妄想、悪夢のようなもの

2.麻薬を取り締まる行政、警察関係者に追われる話

3.ホモセクシュアル傾向の強いポルノ(エログロ+詩的イメージ)

4.病院・厚生施設などで治療を受けているもの

5.麻薬への渇望と使用感などの具体的描写

6.インターゾーンなる市域を中心にしたSF的描写

 このような断片化した悪夢的イメージの脈絡ない集積。ストーリー性の拒否はケルアックの『路上(オン・ザ・ロード)』にもあったが、バロウズはより意識的に方法論として取り入れている。『裸のランチ』という小説は麻薬を扱っている性質上、悪夢的イメージの頻出は納得できるが、もう一つ興味深いと感じたのが、麻薬や中毒患者に対する管理者側の描写が多く、管理者側の常軌を逸したふるまいが本書を特徴づけていることだ。

 管理者/支配者は管理下にある者の逸脱行為に対応するとき最もよくその本質をむき出しにする。麻薬は支配と被支配の関係性において、取り締まりの対象ともなり、アヘン戦争などの歴史を見てもわかるように、支配の道具ともなる両義的なものである。そういう意味で管理者/支配者側が最も敏感に反応するのが、麻薬とその使用者だろう。麻薬を使用することそのものを肯定するつもりはないが、バロウズのいうように「作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけ」であり、「私は記録する機械だ」(引用:訳者あとがき)というなら、『裸のランチ』という作品は、当時の政治状況にノーを突き付けた中毒者の「記録」にほかならない。