希望(仮)としての世界一周 津村記久子『ポトスライムの舟』

 

 朝起きて「仕事に行きたくない」と何度思ったことだろう。でも、その気持ちを押さえつけるために「今がいちばんの働き盛り」などという刺青を腕に彫ろうと考えるナガセの心理には相当な屈託が潜んでいるにちがいない。主人公のナガセ(長瀬由紀子)は29歳、独身、実家で母親と二人暮らし、仕事は平日の工場勤務に加えて、18:00~21:00は友人のヨシカが経営するカフェで給仕のバイト、さらに土曜日に老人向けのPC教室講師、空き時間にデータ入力の内職までしている。

 ナガセは働く。食事や睡眠以外の時間はすべてお金に換えたいと思っているかのように。なぜそんな働き方をするのか。ヒントは小説の冒頭、工場の休憩室に掲げられた二枚のポスターにある。一枚は「さるNGOが主催する世界一周のクルージング」、もう一枚は「軽うつ病患者の相互扶助を呼びかけるポスター」だった。「心の風邪に手をつなごう、みんなでつらさと向き合おう」というコピーがつけられたポスターを見て、ナガセは反射的に目をそらす。そして、あたかも救いを求めるかのようにクルージングのポスターを見上げる。

「ひととおり内容を読み、写真を、特にカヌーに乗っていた現地の少年の写真を眺めたあとは、でかでかと書かれたその代金に視線を固定していた。

一六三万円」

 津村記久子という作家の巧みさについては、多くの評者が指摘するところだ。この何気ない休憩室の描写で、ナガセが体験してきたもの、ナガセの心の中に湧き起ころうとした不穏な空気、不安、恐怖、いらだちを垣間見せ、それを必死に押さえつけ、平静を保とうとするナガセを一瞬にして浮かび上がらせる。

『ポトスライムの舟』は深層に荒れ狂う嵐を表層においていかに乗りこなし、出口らしきものを見出していくかという小説だ。

 ラインに流れてくる乳液のキャップをしめる。不良品をはじく。それだけのことをくり返す単調な仕事。ナガセは考える。

「この仕事には向いている。雑念に苛まれていない限りは。手は動いているけれど、コンベアの縁に映る顔が真っ青ということがある。それはたいてい、突然湧き上がってきた何らかの妄執に頭の中を蹂躙されている時のことだ」

 ナガセが取りつかれたように休みなく働くのは、何もしないでいる時間が怖いから。そうしなければ湧き上がってくるものに乗っ取られてしまう。津村記久子はナガセとカタカナで表記される作中人物の心中をのぞき込み、さらけ出すのでもなく、かといって、ナガセの思考に立ち入らないわけでもないという、うちと外を自在に出入りする文体を駆使する。例えば、次のくだり。

「特にラインリーダーの岡田さんはいい人で、工場での初日にガタガタ震えながらラインにやってきたナガセを心配して、何くれとなく面倒を見てくれる」

 ポイントは二つ。視点のねじれが生じている点。岡田さんをいい人だと思っているのはだれなのか。作者なのか、作中人物のナガセなのか。ナガセなら、そのあとすぐ出てくる「ナガセ」は「わたし」と表記されるべきところではないか、ということだ。

 もう一つは、「ガタガタ震えながら」という尋常でない状態をさらりと流して、出来事と読み手の間に絶妙な距離感を生んでいる点。実はそれも主語を「わたし」ではなく「ナガセ」と表記することから生じている。大変なことが起こっている(かもしれない)のに、読者はその距離感からユーモアさえ感じとる。まさに文体が出来事と心のバランスを取りながらナガセという人物の軌跡を紡いでいく。

 ポスターに描かれたカヌーに乗って波間を行くナガセ。彼女に必要なのは時間と希望だ。工場勤務によって得られる収入が世界一周クルージングの代金とほぼ一致することを知ったとき、ナガセには希望(仮)が生まれた。自分の一年を世界一周クルージングに換金する。不安と恐怖から目をそらすための単調な労働の毎日が希望(仮)を得て、出口らしきものを見出す。時間がようやく流れ出す。

 学生時代からの友人のりつ子と娘の恵奈がナガセと母親の家に転がり込んで同居することになり、その後、りつ子の夫との離婚が成立し、職を得て、独立したり、ラインリーダーの岡田さんが夫の浮気で離婚するかどうか悩んだりと、ナガセの日々の経過は様々なサイドストーリーで表される。

 中でも注目すべきなのが、ポトスライムの増殖だ。ナガセの自宅にも工場の休憩室にもヨシカのカフェにもある観葉植物は、水さえあればどんどん増えていく。「水だけでどんどん増えるってすごくないですか」とナガセは言う。ここにどれだけの象徴性を読み込んでいいのか、わからない。しかし、泣いたり、叫んだり、大げさな感情表現を禁じられたかに見えるナガセが、精一杯訴えようとしているように見えてくる。なんだかわからないけど、増えてきちゃうのだ。

 ナガセが慢性的に出ていた咳を無視して、一週間も寝込むほど風邪をこじらせるのも象徴的だ。そうした時間を経て、彼女が見出したものは、すがりつくようにして過ごした希望(仮)からの解放だ。自由というにはほど遠いが、それでも何かから目をそらさずに生きることができるのかもしれない、そう感じさせる。

 文庫に収録されているもう一篇の「十二月の窓辺」は主人公の名前こそちがうもののナガセの会社勤め時代の体験が書かれていると考えていいだろう。「ポトスライムの舟」に対して、ロスト・ゼネレーションや派遣世代を代表する文学という評価があったという。低賃金で苦しい生活をしているシングルの女性が主人公だという表面的な見方でそう呼ぶだけでなく、この小説の中でナガセが考えようとしなかったこと、必死で目をそらそうとしていたこと、それを読者が考えてはじめてお仕事小説としての本書が完結する。ロスト・ゼネレーションってそういうことじゃないのか。津村記久子という作家はつくづくうまい。