わたしはここにいる 今村夏子『むらさきのスカートの女』

 

語り手の謎

(ネタバレ)『むらさきのスカートの女』を読んでいる間ずっと不思議な感覚が付きまとっていた。それは「語り手」に対して漠然と感じる違和感だ。最初はその違和感を常識的な範疇に収まるように脳が補正する。それでなんとなく納得して読み進める。読み進むうちに、その違和感は次第に補正では効かないほど異常なものとして認識されるようになる。商店街での「わたし」の行動もその一つ。なにしろ「わたし」は、人混みの中誰にもぶつからずに歩くという特技を持つ「むらさきのスカートの女」にわざと突進していったのだから。語り手の常識や倫理観の欠落、狂気じみた執着から、最初は「常識」に依拠し自分を欺きながら読んでいたことに気づかされる。推理小説でよくあるいわゆる「信用できない語り手」にも通じる。しかし、本書の語り手はうそつきではない。『むらさきのスカートの女』は「うそ」とか「ほんと」といった二元論のレベルで語ることができない。読者はこの語り手とどんな距離感で本書を読むのか、その読み自体が問われる小説なのである。

 

追うものと追われるもの

 今村夏子の小説を読むという行為は、これまでも読むという行為そのものを問われるところがあった。しかし、本書『むらさきのスカートの女』はこれまでとはギアが一段上がったという印象を受ける。

 語り手「わたし」は町の有名人「むらさきのスカートの女」について語る。むらさきのスカートの女はいつもむらさきのスカートをはいているのでそう呼ばれている。小説の語り手が特定の人物について語るのはよくあることだが、この語り手はストーカーのように執拗に女の生活を観察し、記録する。時には生活に干渉しさえする。なぜ「わたし」はここまで執拗にむらさきのスカートの女を追うのだろうか。「追うものと追われるもの」という文学的主題がある。探偵と犯人。安部公房ポール・オースターはその枠組みを巧みに利用して、両者の関係性が相互作用的であり、不可分なものであることを描いたが、本書の語り手「わたし」とむらさきのスカートの女にも一応大枠ではこの関係性を見ることができる。

 

名前の謎

 むらさきのスカートの女には日野まゆ子というれっきとした名前があるが、それを知ってからも語り手がその名を口にすることはない。また語り手自身にも権藤という名があり、ホテル清掃の職場で何度か「権藤チーフ」と呼ばれるだけで、語り手は自分のことを「黄色いカーディガンの女」だと自己紹介する。むらさきのスカートの女に黄色いカーディガンの女、この奇妙な相似形を成す二人のあだ名は、隠れ蓑のように本来人が持つ個性を覆い隠し、透明な存在にしてしまう。むらさきのスカートの女は「有名人」だというが、それは商店街の無害なゆるキャラのようなもので、その名の内側にいる日野まゆ子が認識されているわけではない。語り手に至っては、職場にいても同僚にその存在さえ気づかれない。ともにホテルの清掃会社で働く二人は社会の底辺にいて、人から無視され続けてきた存在なのだとひとまずは言うことができる。

 

願望と現実

 語り手「わたし」とむらさきのスカートの女が双子のような相似形を成すという指摘をした。しかし、それが語り手「わたし」の願望だとしたら、どうだろうか。社会の底辺で誰からも認識されずに生きてきた女というのが語り手「わたし」の意識されざる自己認識だとして、「わたし」が語り始めるのは、「むらさきのスカートの女」その類縁を見出したといううれしさからではないだろうか。事実、「わたし」は何度もむらさきのスカートの女と友達になりたいと考える。そして、「わたし」は勝手な自己認識の投影として「むらさきのスカートの女」というフィクションを作り上げる。『むらさきのスカートの女』という小説がたいした出来事も起こらないのにスリリングなのは、語り手の作り上げたフィクションとしての「むらさきのスカートの女」から現実の「むらさきのスカートの女」が避けがたく漏れ出して、その乖離が無視できなくなっていくプロセスが語られるからである。

 

むらさきのスカートの女の消滅

 語り手「わたし」にとっては(ということは読者にとっても)意外なことかもしれないが、ホテルの清掃スタッフという仕事を得てからのむらさきのスカートの女は商店街に出没するヘンな女という語り手が作り上げたイメージからどんどん逸脱していく。仕事を覚えるのが早く、先輩にかわいがられる。いつもの公園で子供たちにからかわれる存在から一緒に遊ぶ存在になる。ホテルのアメニティグッズを勝手に持ち帰りバザーで売る。果ては清掃会社の所長と不倫までやってのける。これらの事実は「むらさきのスカートの女」から日野まゆ子が漏れ出しているということにほかならず、語り手からするとゆゆしき事態だったのではないだろうか。これでは自己の相似形としてのむらさきのスカートの女はまったく機能せず、逆に世間から無視されたままの自分の惨めさだけが余計にはっきりするだけだ。所長との痴話げんかとアメニティグッズの横流しは語り手にとってむらさきのスカートの女を消し去る/自分だけのものにする格好のチャンスとして到来した。語り手が周到に準備した逃走手段によってむらさきのスカートの女は煙のように消えてしまった。現実レベルのストーリーとしては、むらさきのスカートの女が「わたし」のことばを信用せず、コインロッカーから金を持って逃走したということになるだろうが、読んでいる印象としては、殺人事件でも起こったかのような禍々しさを感じる。むらさきのスカートの女は「わたし」の感じる避けがたい乖離の裂け目に消えてしまったとしか思えない。

 

わたしはここにいる

 今村夏子は小説「あひる」で見えない娘と入れ替わるあひるを描いた。ここでは両者は不都合な現実を無視することで立ち上がるもう一つの現実の象徴として機能していた。『むらさきのスカートの女』では、「語り手」が無視される者と入れ替わる者の両方の役割を担っている。むらさきのスカートの女がその行方をくらませてはじめて、「わたし」は「発見」された。むらさきのスカートの女のアパートの二階廊下から落下してけがをして入院した所長のお見舞いに行った清掃会社のチーフたちの中に権藤チーフもいた。「わたし」は所長と二人きりになったすきを見て、所長を脅し昇給の交渉をしようとする。

「『所長』

 とわたしは言った。

 『うわっ。びっくりした。権藤さん、いつからそこに』

 『さっきからずっといました』」

「わたし」はあたかも唐突にその場に姿を現したかに見える。ずっとそこにいたのに。見えるようになったのは、むらさきのスカートの女という隠れ蓑のような存在を失ったからだが、彼女は権藤チーフとして再デビューするようなことはしない。彼女が選んだのは、自分が作り上げたフィクションをそっくりそのまま生きることである。彼女は公園のむらさきのスカートの女の「専用シート」に腰を下ろす。「黄色いカーディガンの女」のデビューである。しかし、一瞬現れた小説の裂け目から明らかに「わたしはここにいる」という女の叫びが聞こえた気がする。見つけてほしい。つかまえてほしい。『むらさきのスカートの女』という小説からは痛切にその叫びが聞こえるにもかかわらず、見つけること、つかまえることは至難の業だ。その理由は彼女を視界から排除していた読者の側にある。