二つの長編の関係性
長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年6月刊行)とそれから40年近い歳月を経て刊行された本書『街とその不確かな壁』は、どちらも1980年『文学界』(9月号)に掲載された中編小説「街と、その不確かな壁」を原型としている。中編小説「街と、その不確かな壁」が単行本未収録のままである理由や両長編が書かれた経緯については長編『街とその不確かな壁』の「あとがき」に詳しい。
中編「街と、その不確かな壁」の出来に不満を持っていた村上春樹は単行本には収録せず、そのアイデアをもとに大幅に書き直したのが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』である。しかし、その後『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とは「異なる形の対応があってもいいのでは」と考えるようになり、時を経て完成したのが『街とその不確かな壁』である。「あとがき」には「上書きする」というより、「併立」「補完」する関係として両者は存在すると書かれている。
今回改めて両者を比較して思ったのは、作家・村上春樹にとって、1985年に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を2023年に『壁とその不確かな壁』を書くことは切実に必要なことだったということだ。なぜなら、前者は「私」を「世界の終り」という壁のある街に閉じ込める物語であり、後者はその街から「僕/私」を解放する物語だからだ。
運命の女の喪失-『街とその不確かな壁』第一部
村上春樹における「運命の女」はしばしば小説の表舞台から姿を消し、そのたびに主人公は打ちのめされる。これは村上春樹の小説における主要な話型の一つになっている。特に本書『街とその不確かな壁』の第一部では「ぼく」が16歳の時に出会った一つ年下の少女との交流が詳細に描かれる。彼らは互いの町を行き来しデートを重ね、長い手紙をやりとする。彼らの話題に登場するのが「高い壁に囲まれた街」である。少女はもともとその街に住んでいたという。
「ぼく」が彼女にその街について様々な問いかけをすることで、その街は細部まで精緻に描かれた絵画のように完成度を高めていった。長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にも登場する街「世界の終り」は『街とその不確かな壁』では「高い壁に囲まれた街」として、第一部の現実世界と交互に描かれる。「高い壁に囲まれた街」にいる「私」はどうやら現実世界で少女が突然姿を消したあと、そこにに入り込んだようだ。
「生の世界は汚物にまみれている」
これは『ダンス・ダンス・ダンス』(文庫版下巻40章)に出てくる言葉だが、おそらく精神的に深刻な問題を抱えていた15歳の少女が生きるには「現実世界」は過酷過ぎたのかもしれない。「高い壁」は彼らを守るものでもあり、閉じ込めるものでもある。少なくとも村上春樹という作家的想像力はまるで自我を硬い殻で覆うように、壁の内側の無時間的世界に少女を、そして自らを閉じ込めた。
そして、作家村上春樹に40年という時が流れる。そろそろ出してあげないといけない。村上春樹は、そう思ったに違いない。第一部の終わりは「私」の本体は壁の内側に残り、影だけが街から脱出するという『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のラストシーンと重なり合う。問題はここからだ。
準備運動としての相似形-『街とその不確かな壁』第二部
「私」(あるいは「私」の影)は「現実世界」(とりあえずこう呼ぶ)に復帰した。本書で最も紙幅を割く第二部は「私」解放の可否がかかる重要なパートである。村上春樹がそのために第二部に用意したのは、「子易さん」と「図書館」である。これにより物語はいくつかの相似形を獲得する。まず、「私」と子易さんの境遇の相似。二人はかつて熱烈に愛した女性と息子を失うという過去を持つ。そして、言うまでもなく二つの図書館の存在。一つは福島のとある町営図書館。「私」は子易さんの導きによりこの図書館の館長職に就く。もう一つは高い壁に囲まれた街の図書館。こちらは普通の図書館ではなく、古い夢を閉じ込めたたまごのような形をしたものが無数に保管されている。子安という人物が「普通」とは違っているのは、ベレー帽をかぶり、スカートをはいているという点からもわかるが、決定的なのは、彼がすでにこの世の人ではないという事実。子易という人物の姿を見ることができ、コミュニケーションできるのは、図書館の実務を取り仕切る女性司書添田さんと「私」だけのようである。あの世とこの世の境界を越える子易さんの存在は、「私」本体の「現実世界」(仮)への復帰を想起させる。
そして、登場するのが「イエローサブマリンの少年」だ。彼は自閉症のようだが、記憶力に人並外れた能力を発揮する。誕生日を聞いただけで、その人が生まれた曜日を正確に言い当てる能力を持ち、学校へは行かず、毎日のように図書館にやって来てずっと読書している。どうやら図書館のあらゆる種類の本を読んでいるらしい。そんな彼は偶然「私」が高い壁に囲まれた街について話しているのを耳にし、その断片的情報から手書きの地図を作成し私に手渡した。イエローサブマリンの少年の登場により、「私」の図書館勤務という平穏な日々は一気に幻想性を帯びる。まるで「現実世界」(仮)があの高い壁に囲まれた街に侵食され始めたかのように。何度かイエローサブマリンの少年と「私」の間で不器用なやりとりが交わされたのち、少年は忽然とその姿を消す。彼は何らかの方法で「高い壁に囲まれた街」に移行したのだ。
現実の幅-ガルシア=マルケスの引用
第二部の終りにガルシア=マルケスの『コレラ時代の愛』が引用され、現実の中に何食わぬ顔で登場する非現実について語られる。マジック・リアリズムという批評が与えた名称に関係なく、ガルシア=マルケスは彼の生きた現実をそのまま描いていたのではないかと。これは言い換えるなら、現実の幅、現実の奥行の問題である。少なくとも現代の日本社会では「非現実」と認識される事象を、ガルシア=マルケスが描く小説では「現実」として受け入れてしまえるほど現実に幅や奥行があるということである。この引用をした村上春樹の念頭には子易さんという作中人物のことがあったと思われる。これまでも村上春樹の小説には幽霊のような存在が何度も登場している。
しかし、村上春樹は「現実と非現実とが一つに入り混じっている」ような小説は書いてこなかった。実際はむしろ真逆で、ある世界から別の世界へ、現実から異界へ村上春樹の作中人物は必死の思いで境界線を越えた。そこには秘密の回路や儀式めいたものが存在した。村上春樹に限らず、多くの物語はそうすることなしに此岸から彼岸への境界を越えることを許さない。それは物語の生理と言っていい。
『街とその不確かな壁』において作家がしようとしているのは、物語の生理に逆らうことなく、高い壁に囲まれた街から「私」を解放することだといえるのではないだろうか。イエローサブマリンの少年はそのためにどうしても必要な作中人物だった。
幻想の自律性-『街とその不確かな壁』第三部
「私」がいなくなったあとに、その世界が消滅してしまうのなら、「私」を解放したことにはならない。「私」の本体は高い壁に囲まれた街で夢読みとして暮らしている。その「私」の後を継ぎ、高い壁に囲まれた街を存続すること、すなわち、もう一つの「現実」として幻想が自律性を獲得することが必要だった。イエローサブマリンの少年と「私」の離脱はヤシの木より高くヤシの木を登ることよって行われたが、それを可能にしたのは信じること、「私」とかつての15歳の恋人がふたりで作り上げた幻想世界を「現実」だと信じることによってしか成し遂げることのできない行為だった。
ガルシア=マルケスとは全く異なるしかたで村上春樹は現実と幻想の対立軸を「私」の本体と影が再統合される象徴的な出来事を通して、一人の人間の生存に必要不可欠な現実の幅あるいは奥行のようなものとして提示した。かつての15歳の恋人もその現実を生きている。