逃げ出す女 フォークナー『響きと怒り』

 

響きと怒り』は複数の長短編が同一の舞台や作中人物を共有する一群の小説群ヨクナパトーファ・サーガを構成する一篇。旧家没落の話だというので、年代記風のストーリーを想像していたが、全くちがった。コンプソン家の兄妹たちのたった四日間の話だ。フォークナーは「意識の流れ」の手法を駆使し、その四日間に作中人物の過去と現在、出来事と意識を複雑に交錯させるので、ストーリーがたどりにくい。「それにしても、この小説は晦渋であり、難解である」(本書「解説」)と訳者(高橋正雄)が言うほどだ。

響きと怒り』は以下のような四つの章からなっている(〈一〉~〈四)の数字は便宜的に付けたもの、人名は章の中心的人物)

「一九二八年四月七日」〈一〉 ベンジャミン(ベンジー)三男

「一九一〇年六月二日」〈二〉 クエンティン 長男

「一九二八年四月六日」〈三〉 ジェイソン四世 次男

「一九二八年四月八日」〈四〉 ディルシー コンプソン家に仕える黒人女

 かつてコンプソン家は州知事や南軍の将軍など土地の名士を輩出した名家だが、現在は没落し、物語中の現在である1928年では、一家の唯一の働き手である次男ジェイソン四世を実質的な家長とし、その母親キャロライン、三男ベンジャミン、長女キャンダシーの娘クエンティン(この時点ですでに亡くなっている長男クエンティンと同じ名)、さらにコンプソン家に仕える黒人たちが暮らしている。『響きと怒り』をコンプソン家の兄妹の話だと書いたが、上の章立てには長女キャンダシーの名がない。しかし、彼女こそ『響きと怒り』全編を通じての主題を浮き彫りにする人物だと思われる。

 第一章はコンプソン家の三男ベンジャミンの視点から語られる。読み進むにつれベンジャミンが「白痴」、重度の知的障碍者であることがわかってくる。気に入らないことがあると大声で泣き出し、お守り役の黒人ラスターらを辟易させるが、キャンダシーが慰めるとベンジャミンは決まって泣き止む。次に引用するのは第一章に子供時代の回想として川遊びをしている場面。

「(…)わたしが泣き出すと、彼女がわたしのところへやってきて、水のなかでしゃがんだ。

『さあ、泣かないのよ』と彼女は言った。『あたしは逃げたりしないわよ』そこでわたしは黙った」

 家族がベンジャミンを厄介者扱いする中で、唯一キャンダシーだけが彼に愛情をもって接している。成長したキャンダシーに男ができると、ベンジャミンは彼の特殊能力とも言える鋭い嗅覚で、それを嗅ぎ取る。事の真相を理解しないまま、キャンダシーがもう以前のキャンダシーとは何かが変わってしまったこと、これまで通りキャンダシーがベンジャミンに愛情を注いでくれるかわからないことを鋭く嗅ぎ取るのである。

 次に引用するのはキャンダシーが暗がりの中ハンモックで男と寝ていた後の場面。

「キャディとわたしは走った。わたしたちは台所の上がり段をかけあがり、ポーチにはいると、キャディが暗がりの中で跪いて、わたしを抱きしめた。わたしには彼女の息づかいが聞こえ、彼女の胸のはずみが感じられた。『あたししないわ』と彼女はいった。『もう、決して、あんなことしないわ、ベンジーベンジー』すると彼女は泣きだし、わたしも泣いて、わたしたちは抱き合った」

 キャンダシーにはベンジャミンが「無垢」の象徴のように見えていたのかもしれない。少なくもベンジャミンには性的行為のあとのキャンダシーの動揺を誘う何かがあったのである。彼女はベンジャミンにもう決してあんなことしない」と言う。このあとキャンダシーは乱暴に唇を石鹸で洗うが、ベンジャミンは「キャディは木のような匂いがした」と彼女の匂いに言及する。ベンジャミンはベンジャミンなりに彼女の「不品行」を嗅ぎ取っている。しかしなぜ、彼女はそれをベンジャミンに詫びなければならなかったのか。ここに『響きと怒り』という小説の持つ「気持ち悪さ」がある。彼らの意識の中を手探りで進みながら感じるのは、ある種の抑圧が女ばかりか男をも押し潰そうとしているということである。

 第二章の視点人物は長男のクエンティンである。彼は一家の土地を売って学費を捻出してもらってハーヴァード大学へ進学した。何でも考え込む内向的なタイプで、第二章はクエンティンが入水自殺する直前の一日の出来事と過去を回想する意識の流れを複雑に交錯させながら描いている(ただし、自殺したことはのちの章で遠回しに言及されるだけ)。クエンティンが自殺を決意するに至る直接の原因もはっきりと書かれているわけでないので、推測するしかないのだが、彼が妹キャンダシーを処女性の象徴と見なし、庇護の対象としていること、さらにキャンダシーが彼のそうした妄想とも言えるキャンダシー像とは対照的な性的に奔放な女だったことが関係していることは間違いないだろう。

 回想の中でクエンティンは父親に妹キャンダシーとの「近親相姦」の罪を告白する場面が出てくる。句点も読点もない父親と息子の会話が延々と続く(このくだりは安易に引用することを躊躇させるが)。

「(…)父はお前はわしを面喰らわせるにはあまりにも真剣すぎるようだもしそうでなかったらお前は自分が近親相姦を犯したなどとわたしに告げるような苦しまぎれの手をつかう必要はなかっただろうさといいぼくは嘘なんかいいません嘘なんかいいませんといいすると父はお前はごく当たり前な愚行を恐怖にまで高めてそれを真実というもので清めようと思っていたのだよといいぼくはそれはキャディをこの騒々しい世の中から隔絶させるためたっだのです(…)」

 この妄想と現実との綱引きのような対話劇はすべてクエンティンの意識の流れの中で起こっていることだが、この対話でいみじくも言っているようにクエンティンの妹を守るとは「世の中から隔絶させる」ことだったわけで、それがどのような思想的背景から出ているものであれ、生身のキャンダシーはそこにはいない。

 このことはクエンティンの最後の一日の過ごし方ともリンクしている。大学の授業をサボってふらふらと散歩をしているクエンティンはパン屋で英語が話せないイタリア人移民の少女と出会う。両親とはぐれたらしい女の子を菓子パンを買ってやり、彼女の家を探してやろうと連れまわすが、見つけられないどころか、少女を連れ去られたと思った(事実はそれに近いが)移民たちから訴えられ逮捕されそうになる。クエンティンは少女が英語を話せないにもかかわらず、終始話しかけ、「ねえちゃん」と呼びかける(原文は"sister")。そこではあたかも自分が「救う」ことのできなかったキャンダシーを「救おう」としているかに見える。

 しかし、少女は愚鈍な動物のようにパンをほうばるばかりで、クエンティンの呼びかけに答えることもないし、彼が少女の家を見つけることができたとしても、それが妊娠し(お腹の子の父親とは異なる男との)結婚を決意したキャンダシーを翻意させることにもならない。クエンティンは現実とは遠く離れた観念の中に閉じ込められたドン・キホーテのように真剣で滑稽で惨めだ。自殺は自己の住まう観念世界と現実がどうしようもなく乖離してしまったクエンティンの論理的帰結としかいいようがない。

  第三章の視点人物は次男であるジェイソン四世である。感受性が豊かなクエンティンやキャンダシーと違い、ジェイソンは皮肉屋で物欲的な性格で、実質的な家長として家族に対して強い支配欲を持っている。第三章の「一九二八年四月六日」の時点で家族唯一の働き手であるジェイソンは、母親やキャンダシーの娘クエンティン、ベンジャミン、さらに召使の黒人一家を養わなければならない。ジェイソンは自殺した兄のクエンティン、娘を置いて家を出ていったキャンダシーとは相性が悪く、子供のころからのけ者にされることが多かった。さらにクエンティン、キャンダシーの不在がジェイソンをコンプソン家に縛られている原因でもあり、ジェイソンがことあるごとに不満と皮肉を口にするのも無理はない。小説の文体は視点人物の精神性を反映しており、「白痴」の意識を反映した第一章、自殺を決意し正気を失いつつある男の意識を反映した第二章とは異なり、第三章はリアリズムの手法に近い。

 ジェイソンは男関係が奔放なキャンダシーとその娘であるクエンティンに強い憎悪の感情を持っており、キャンダシーが送ってくる娘の養育費を着服する一方で、キャンダシーの成長した娘に一目会いたいという願いを聞き入れることはなかった。また、学校をサボりがちなクエンティンに対しては、仕事場である荒物屋を抜け出してまで彼女の後をつけたり、家では暴力的な言動を繰り返している。ジェイソンは自分に負わされた責任の対価として無意識にマッチョイズムとミソジニーを内面化している。

 第四章は一人の視点から描かれているわけではないが、コンプソン家に仕える黒人召使一家の女家長ディルシーが中心的な人物となっている。第一章から第三章まで読者は零落し崩壊寸前のコンプソン家の人々の内面をたどってきた。最後の章は一転長くコンプソン家を支えてきた黒人女が最後を見届ける役割を担っている。

 キャンダシーの娘クエンティンに対して暴言を吐くジェイソンに対して、唯一毅然とした態度でクエンティンを守るのがディルシーだ。また、彼女は息子のラスターにベンジャミンを教会へ連れていかせ、ベンジャミンに救いをもたらそうとする。教会で説教を聞いたディルシーは涙が止まらなくなる。見かねた娘のフローニーが泣くのをやめるよう制すると、ディルシーは次のようなことを言う。

「『おらは最初とそして最後を見ただ』とディルシーはいった。『おらのことは心配することはねえ』

『なんの最初と最後だかい?』とフローニーはいった。

『気にすることはねえだ』とディルシーはいった。『おらは、初めを見ただし、そして今終わりが見えるだ』」

 このような主語を省いた書き方は、何とでも解釈できるので、ディルシーが何を見たか断定することはできない。この会話の前にあの説教師は神の栄光が見えるという一節があり、文脈上、ディルシーの言う最初と最後は神に関わることだと考えられる。同時にディルシーが第四章での役割を示唆しているかにも受け取れる。

 ジェイソンは自分の部屋に隠し持っていた着服金をクエンティンに盗まれたことに気が付く。クエンティンは復活祭のために町に来ていた見世物小屋の芸人と盗んだ金を持って逃げ出していた。ジェイソンは車で彼女の行方を追う。

「(…)女に、しかも年もいかない小娘にまんまと出し抜かれた自分のことが思いうかんでくる。自分から金を奪ったのが男だと信じることができれば、まだしもだと思った。だが奪われた仕事のつぐないであるべき金を、あれほどの努力と危険をおかして得た金を、人もあろうに、仕事を奪った張本人に、あのあばずれ娘に奪われるとはなんたることだ」

 ここにジェイソンの思考の傾向がよく表れている。若い女に出し抜かれたことを何よりも恥だと考え、キャンダシーが銀行家の男と結婚することで得られるはずだった仕事と地位がキャンダシーの妊娠によって破産になったことを逆恨みしているのである。女性蔑視とひがみ根性。ジェイソンは「奪われた」というが、彼自身によって獲得されたものなど、初めからどこにもない。しかし、別の見方をすれば、ジェイソンの言うことにも一理あるかもしれない。彼はコンプソン家に生まれたときから、すでに「奪われた」存在なのかもしれない。

響きと怒り』という長編を通してかぎになるのはキャンダシーとクエンティンという二人の女の存在である。ぼくは彼女たちの存在を意識してこのレビューに「逃げ出す女」というタイトルをつけた。しかし、逃げたところで本質的な意味でこの圧倒的な崩壊のうねりから脱出できるわけではないだろう。せいぜい彼女たちの逃げた先で似たような目に合うのがおちである。いずれにせよ、フォークナーは南部の名家の零落を作中人物の内面から「罪」の問題として描こうとした。そこにあるのは崩壊へと至るプロセスではなく、崩壊の現場であり、その結果だ。あるのはコンプソン家の兄妹たちの苦悩ばかりなのである。

 本書の巻末に「つけたし」と題されたコンプソン家の人々を紹介する文がフォークナーによって書かれている。これはもともとマルカム・カウリーの『ポータブル・フォークナー』のために『怒りと響き』の梗概のつもりで書いた文ということだが、本書の訳者・高橋正雄が言うように「作者自身が書いたこの小説の補足的解説」となっている。その「つけたし」の「キャンダシー(キャディ)」の項には、非常に印象的なキャンダシーのその後と思われるイメージが描かれている。それはキャンダシーの同級生だった図書館員の女がジェイソンに持ってきた雑誌の切り抜きである。

「それは写真で、明らかにしゃれた大衆雑誌から切り取ってきたカラー写真で(…)山と棕櫚と糸杉と海のあるカンヌビエールが背景になり、強力で高価そうなクローム仕上げのオープンのスポーツカーと、豪華なスカーフをかぶりあざらしのコートをまとった、帽子をかぶっていない女の顔が写っており、その顔は老いを知らない美しさで、冷たく落ち着きはらい、だが呪われており、その女のわきにはドイツの幕僚のリボンと衿章をつけた中年のやせているが立派な顔をした男が立っていた」

響きと怒り』は馬車に乗って家へ帰る途中のベンジャミンの「むなしく青くすき通」った目という美しくも呪われたイメージで終わるが、この「つけたし」に描かれたキャンダシーの呪われた美しさもまた鮮烈な印象を残す。「救い」などという半端なものの介在する余地のない小説。これを描き切ったフォークナーの力業に圧倒された。