なぜ主人公に名前がないのか 千葉雅也『デッドライン』

 

 知人に勧められて読んでみた。あまりわからなかったので、同じ著者の『現代思想入門』(講談社現代新書)を読んでみた。哲学的な内容も含まれていたので、小説理解の助けとなるかと思ったからだ。『現代思想入門』は思想哲学が苦手なぼくにもわかりやすく、また、思想哲学「業界」の手の内を見せてくれるという点でもとても興味深かった。その上で『デッドライン』を再読してみた。補助線としての『現代思想入門』が役に立ったのかどうか、それは定かではない。しかし、再読の結果『デッドライン』という小説がどうやらぼくは苦手らしいということがわかってきた。「きらい」というのとは微妙にちがう「苦手」。その理由を考えてみたい。

あらすじ

 主人公「僕」は大学院生。卒論はフランスの人類学者マルセル・モース。院に進んでからも惰性でモース研究を続けていたが、行き詰まりを感じている。同じゼミにはW・ベンヤミンアンドレ・ブルトン、フランス映画を専門にする人など、まあ、幅広く人文系の研究科。この小説に描かれる「僕」の日常は映画サークルで知り合った瀬島くんの映画制作を手伝う場面、ゲイである「僕」がいわゆるハッテン場で一夜の相手を求めてさまよう場面、友人のKや知子と夜の街をドライブする場面、そして院のゼミでの徳永先生の講義と院生の発表場面、これらの場面がローテーション(テキストには「回遊」という象徴的な言葉が出てくる)で繰り返される。

 いつくかの転換点がある。徳永先生のアドバイスで「僕」の修論のテーマがジル・ドゥルーズに決まったこと。順平という「僕」の一つ年上のダンサーを目指している男と知り合うこと。彼は「僕」から様々な言葉を引き出す役目を果たしている。修士論文を書き始めた「僕」は第二章に至って行き詰まる。難渋し前に進まなくなっているのに追い打ちをかけるように、父親の会社が倒産するとの報を受け取る。結局「僕」は修論のしめきりに間に合わなかった。安い部屋への引っ越しも決まった。修士三年目の学費の工面はなんとかなり、生活費はアルバイトで賄うことになった。「僕」の「回遊」はデッドラインによって断ち切られる。

徳永先生の講義

 徳永先生のゼミは院生による発表と先生の講義の二部構成になっている。先生の講義は言葉と存在に関わる命題を問うものだ。特に荘子を例に引いた自己/他者の二項対立をどのように乗り越えるのかという講義は、『デッドライン』という小説の構造そのものに関わってくる。荘子が「魚の楽しみ」ということを言ったとき、恵子は「あなたは魚ではないのになぜ魚のことがわかるのか」と問うた。それに対し荘子は「あなた(恵子)は私ではないのになぜ私のことがわかるのか」と切り返した。「自己/他者の分断は、一度切り込まれると永遠に繰り返される」その分断を乗り越える別の見方を先生は示してみせる。先生が提唱するのは、「近さ」という概念。

 人間でも動物でも他者と「近さ」の関係に入ることその時にわかる。先生は言う。「『近さ』において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのときに私は私の外にある状態を主観のなかにインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです」「ある近さにおいて共有される事実を、私は『秘密』と呼びたいと思います」

 この先生の講義を契機に小説は、あるいは僕は「自己」が誰かに、または何かに「なる」ことを経験する。圧巻は夜中に知子と電話をしていたときの描写だ。一人称で書かれている小説であるにもかかわらず、電話を切ったあと、描写はいきなり知子の視点に切り替わる、というか、あたかも「僕」が知子と一体化して、知子の視点で部屋を出て、外へごみを捨てに行ったように感じられる。

『デッドライン』にはこのような一体化、「他者とワンセットになるような」知覚が何度か登場する。それは、ドゥルーズの『千のプラトー』における「生成変化」という概念にもつながっている。

どこにも属さない「僕」

『デッドライン』の作中人物に与えられた呼び名を見れば、夏目漱石の『こころ』を思い出すのは自然なことだろう。しかし、『デッドライン』には『こころ』にあったような打算やだまし討ちは出てこない。むしろ、『デッドライン』という小説を支える生成原理の一つは「僕」がゲイであることで、ヘテロセクシャルの恋愛関係に恐ろしく鈍いという事実だ。知子は「僕」の親友のKに恋愛感情を抱いていたが、その事実に全く気が付いていなかった。中学のときには、いわゆるスクールカースト的などのグループにも属していなかったというし、高校時代も誰それが付き合っていたという話を同窓会で初めて知る始末だ。まるで裏返しの『こころ』。「僕」と呼ばれるだけで、名前を持たず、名を呼ばれるときは「…」と表記される「僕」は『こころ』の主人公とは異なるプロセスで形成された自我を持っている。

女か動物か

「僕」は修士論文の執筆を第二章で行き詰る。『千のプラトー』第十章の「動物になることと女性になることはどちらが重要か」という問題がどうしても解決しなかったからだ。この問題はゲイである「僕」があこがれる「普通の男性性」を考えるとき、避けて通ることのできない問題だった。徳永先生に助言を求めるも、無理をせずテクストの現実にしたがえというアドバイスは、かえって「僕」の論文の言いたいことの不在を浮き彫りにしてしまった。さらに先生は「まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである」という箇所を引き合いに「少女の尻尾を探せ」という謎めいたアドバイスをする。「少女の尻尾」魅力的な言葉だ。しかし、「僕」は忙しい。猫になったり、知子になったり、動物になったり、少女になったりしなければならない。

「僕」の名前

結局、「僕」は「少女の尻尾」を見つけることができず、締め切りまでに論文を提出することができかなった。締め切り(デッドライン)は「僕」が閉じ込められていた円環の時間を否が応でも断ち切ってしまう。外から来て、「僕」を生ぬるい眠りから目を覚ましてくれるものだと思って読んでいたが、違った。「僕」は何にでもなれるテクスト上の人格である。「僕」はまた生成変化する。一度円環が壊れたそのあとで、「僕」は言う。「僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ」そう、だから、「僕」には名前がない。そして、こういう「僕」(仮)みたいな存在がぼくにはよくわからない。いや、これをわかるのがちょっとこわい気がする。自分は保守的なんだと思う。