封印がとけるとき 小川洋子『密やかな結晶』

 

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)

 

  リボン、鈴、エメラルド、切手…。『密やかな結晶』は、身の回りのものが一つ、また一つと消滅していく不思議な島に暮らす人々の詩情とサスペンスにあふれた物語だ。小説家である主人公の「わたし」が目を覚ますと、ざらりとした違和感を感じる。島でまた一つ何かが消滅したのだ。消滅のたびに島の住民たちは落ち着かない朝を迎えるが、それもほんのしばらくのことだ。「今回は、鳥だったなあ」などと住民がのんきに消滅を受け入れるのは、彼らが消滅したものにまつわる記憶も失っているからだ。

 消滅はときに仕事を奪うことがある。「わたし」の友人で廃船になったフェリーの船室で暮らす元整備士のおじいさん、向かいの元帽子職人のおじさん、美容師から助産師になった人、消滅は島の住民にさまざまな影響をもたらすが、誰も文句を言わない。『密やかな結晶』の世界では、消滅は自然現象のようなもので、受け入れざるを得ないという事情もあるが、記憶がなくなるというのは、そういうことなのかもしれない。主人公の「わたし」をはじめ、島の住民は誰もが少しずつ心の空洞を増やしていくのである。

 島の住民の中には、まれにものが消滅しても記憶を失わない人がいる。彼らは秘密警察の「記憶狩り」の対象となり、発見され次第、連行され二度と帰ってくることはない。「わたし」の母親も秘密警察の車に乗せられていくのを見たのが最後だった。『密やかな結晶』は、自然と人為両面から暴力的に記憶を奪われる物語なのである。

「わたし」は担当編集者R氏も記憶を失わない人であることを知り、彼を自宅の隠し部屋にかくまうことにした。(秘密警察の「記憶狩り」はナチスユダヤ人狩りを連想させる。小川洋子は『アンネの日記』を愛読し、アンネ・フランクに関する本も書いているし、小説『沈黙博物館』にもナチスユダヤ人迫害を連想させる場面がある)

『密やかな結晶』は、閉じられた空間のイメージがくりかえし描かれる。島。彫刻家だった「わたし」の母親は彫刻の中に消滅したものを閉じ込めていたし、小説家「わたし」は教会の時計塔に閉じ込められる少女の小説を書いている。フェリーの船室、そして、「わたし」の自宅の隠し部屋。

「わたし」の母親は失われたものをこっそり彫刻の中にしのばせたが、「わたし」は記憶を失わない生身の人間をそのまま隠し部屋に封印しようとする。いや、誤解のないように言っておくと「わたし」の行為は物語上、編集者R氏を秘密警察から守るためである。しかし、「わたし」の思いはどうあれ、かくまわれたR氏は社会とのつながりを欠いた存在になっていく。

 R氏は「わたし」の母親が遺していた消滅したものを見て、さまざまな感慨を抱くが、「わたし」もR氏をかくまうことに協力してくれた元整備士のおじいさんも、自分の中にある心の空洞を再認識するだけだ。ぼくは「わたし」やおじいさんの抱える心の空洞にはげしく動揺する。結局のところ、自分はいろんなものを少しずつ失っていく、そして何を失ったのかもわかっていない。彼らと同じなのではないか。そんな恐怖心に捉えられる。

 今や封印されたR氏だけが、「わたし」にとって失われた世界との交渉を可能にする存在である。物語の終盤、小説が消滅した世界で、それでもR氏に励まされながら、「わたし」が原稿用紙に綴る言葉は、すでに失われた世界への通信文であって、R氏へのラブレターでもある。「わたし」にはしなければならない仕事が残っている。それは自分の小説世界で教会の時計塔に閉じ込めた少女の封印をとくこと。

 彼女が書いていた小説は、表の世界とパラレルに進行している。「わたし」の小説も『密やかな結晶』という小説も閉じられた空間が小説の核である。確かに「わたし」はR氏を秘密警察から守るために隠し部屋にかくまった。彼女が守ろうとしたR氏の頭の中には、かつて島に存在し、今はすでに消滅してしまったものの記憶がそっくり保存されている。「わたし」によって封印されたのは、その記憶たちでもある。

「わたし」の母親やR氏とちがって、その記憶たちは「わたし」に何も語りかけてこない。それらは失われた世界とのつながりが途絶えているという事実を「わたし」に突きつけてくる。「わたし」の世界は「わたし」にとって形骸化した記憶を小箱に閉じ込めることでかろうじてその形を保っている。その封印がとかれるとき、世界の形は激変する。「わたし」は少女の封印をとき、R氏の封印をとく。その空間の封印がとけるとき、物語も終わる。『密やかな結晶』は、自分の物語の核にある小箱の封印をとき、それを開くということの意味を、もっとも過激な形で描いているのかもしれない。

 閉じ込めること、かつてあった何かのかけらを封印して保存すること。これが小川洋子の小説の最大の特徴だと思う。例えば、それは標本であったり、博物館の古びた展示品であったり、博士が持っていた小箱であったりする。いずれにせよ、閉じられた空間との二律背反的な交渉が小川洋子の小説世界を形作っている。

(2月9日加筆・訂正)