記憶喪失の共同体 リチャード・ブローディガン『西瓜糖の日々』

 

西瓜糖の日々 (河出文庫)

西瓜糖の日々 (河出文庫)

 

  (ネタバレ)

 リチャード・ブローディガンの小説はこれまで『アメリ鱒釣り』しか読んだことがなかった。〈アメリカの鱒釣り〉をめぐる様々な断章が、失われた物語に対する哀しみを漂わせる、どこか滑稽で感傷的な詩的世界。しかし、『西瓜糖の日々』を読んで、ぼくのそうしたリチャード・ブローディガンに対するイメージは一新された。

 語り手「わたし」はアイデスという静かでつましい共同体で暮らしている。そこでは何もかも西瓜糖でできていて、そこに住む人々はそれぞれ自分ができる仕事をしながら、共同生活を送っている。「アイデスでは、どこか脆いような、微妙な感じの平衡が保たれている」大小様々な川が流れ、鱒の孵化場があり、西瓜糖を作る西瓜工場があった。

「わたし」は自分の名を名乗ろうとしない。文庫の解説に柴田元幸が書いているようにアイデス(iDEATH)すなわち「自我の死」とも解釈できるその世界は、まるで死者の世界のような無時間とメランコリーに浸されている。アイデスは明らかに大きな欠落を内包することによって成り立っている。アイデスに住む人々は故意に何かを忘れようとしているのだ。

 アイデスの脆く危うい平衡は、つねに彼らが忘れているものから脅かされている。それは「わたし」が避けようとしているかつての恋人マーガレットやアイデスを憎んでいる荒くれ者が住むインボイルの存在に象徴されている。マーガレットは「わたし」の住む小屋の扉をノックするが、「わたし」はそれに応えない。

 一体なぜ「わたし」はマーガレットを避けるようになったのか。それはマーガレットが〈忘れられた世界〉に入り込み、そこから「わたし」には何の価値もないように見えるがらくたを持ち帰ってくるからだ。〈忘れられた世界〉はどこまでも広がる忘れられたものが堆積した墓場のような世界。インボイルの乱暴な連中はそこから忘れられたものを掘り出し、ウィスキーを作って飲んだくれている。マーガレットはそんな連中がいても一向に平気だったが、「わたし」にはそれも気に入らない。

 

「どうして、きみはあそこへ行くんだい?」わたしはそういった。

「ただ忘れられた物が好きなだけよ。集めてるの。ちゃんと蒐集したいのよ。だてなんだか可愛らしいもの。それがなぜいけないの?」

 

 アイデスがきれいさっぱり忘れ去ろうとしているものを、知ってか知らずかマーガレットは再び持ち込もうとしている。マーガレットが持ち込もうとしているのは、いわば過去の痛みや悲しみの記憶である。「わたし」の両親は〈虎の時代〉に家に押し入ってきた虎たちに食べられてしまった。その出来事を語る「わたし」の語り口からは、感情が一切感じられない。そのあと「わたし」はアイデスに移るが、そのとき「わたし」から過去の痛みや悲しみが欠落したのだ。

「わたし」にとってマーガレットのしていることは、いらだちの種でしかない。「わたし」のインボイルの連中に対する疎ましさも根っこは同じものだ。彼らは〈忘れられた世界〉のがらくたをウィスキーにかえて飲んでいるのだから。過去の痛みや悲しみは、彼らの体の中に直接蓄積していく。〈忘れられた世界〉のがらくたを部屋に飾っていたマーガレットも、インボイルたちほどではないにしても、過去の悲しみの浸食作用が起きる。

 アイデスの象徴である鱒の孵化場で起きる血で血を洗う惨劇とマーガレットの死は、アイデスという故意に記憶喪失にかかった共同体が呼び寄せる過去のゾンビのようなものだ。『西瓜糖の日々』は、一見、慎ましいアイデスという共同体のありようが必然的に暴力を引き寄せる、奇妙な表裏関係を詩的イメージで描く幻想小説、いや、ホラー小説と言いたい。