19世紀娯楽小説のすごみ ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

ライ麦畑でつかまえて』の冒頭、ホールデンは自分の幼少期はどうだったとか、自分が生まれる前、両親は何をしていたかとか、そんなデイヴィッド・コパフィールドみたいなことは言いたくないと言っている。きっと、そうだろう。ホールデンが語るのは、学校を退学処分になって戻ってきたニューヨークをさまよう数日のことだから。本人の誕生から成人までを事細かに語る『デイヴィッド・コパフィールド』の主人公は、そんなこと思いもよらないにちがいない。
 新潮文庫で四分冊、岩波文庫で五分冊にもなる長編小説『デイヴィッド・コパフィールド』。主人公デイヴィッド・コパフィールドの幼年期から作家として大成し真実の愛を見つけるまでを描くディケンズの自伝的要素の強い長編で、ディケンズ自身、文庫解説によると数ある作品の中で最も好きな作品だと言っているらしい。しかし、読み始めてわかるのは、「自伝的」といった表現でくくることのできない娯楽小説のあらゆる要素がこれでもかと詰まっていること。特にすごいのは、作中人物のキャラのと多彩なこと。卑屈で奸智に長けたユライア・ヒープ、かわいくて頭がからっぽのドーラ、不器用だけど人の好いトラドルズ、才色兼備でしかも優しいアグニス、貧しいながらも紳士のプライドを捨てないミコーバー、無知と弱さにつけこんで人を支配する冷酷なマードストン姉弟、頭は弱いが心優しいミスタ・ディック、きれいで優しくて世間知らずの母親クララ、気が強く偏屈だが、曲がったことが許せないトロットウッド伯母、武骨で素朴だが、頼りがいのあるミスタ・ペゴティー、天使のような美少女エミリーなど、読み終わった今でもなつかしい知り合いのような気持ちで思い出す。
 中でもデイヴィッドの寄宿学校時代の先輩で、学校一のイケメンで成績抜群、冷酷なサディスト校長クリークルさえも一目置く存在、スティアフォースは忘れられないキャラである。学生たちの憧れの的で、実際に彼を目にすると誰もが好感を持たずにはいられない魅力を持っている一方で、中身がからっぽで、おそらく何をしていても実感をともなわない、そういう思いが彼をつねにいそがしく何かに駆り立てていた。生の実感とでも言うべきものが何に由来するのか、スティアフォースはわかっていたようにも思う。あるとき、めずらしくふさぎ込んで憂鬱そうなスティアフォースはデイヴィッドにこうこぼす。「デイヴィッド、僕は、この二十年ほど、ちゃんとした父親がいてくれればよかったろうにと、ほんとうに思うな」「つまり、僕という人間は、もっと指導が必要だったんだよ」
「父親」の不在は、彼に抑制や倫理を学ぶ機会を与えなかった。スティアフォースは癇癪を起して投げつけたハンマーによって、相手の女に一生消えない顔の傷を負わせたことがある。そんなスティアフォースの突発的な行動は、大人になっても治まることはなかった。物語の中盤でスティアフォースが引き起こす事件は、大小様々な出来事が連鎖する『デイヴィッド・コパフィールド』中、最大の出来事であり、デイヴィッドをはじめとする多くの作中人物に悲しみや憎しみの傷を残すことになった。
『デイヴィッド・コパフィールド』を世界十大小説の一つに挙げているモームは、新潮文庫の解説(中野好夫)によると、デイヴィッドの性格の一貫性のなさを指摘しているという。確かに『デイヴィッド・コパフィールド』をいわゆる教養小説ビルドゥングスロマン)として読むなら、前半の幼少期の受難はともかく、伯母に庇護されてからは、あれよあれよと成功の道を歩むのは、物足りないというより不自然な感さえある。特にデイヴィッドが小説家として成功するくだりは、いつの間にか小説家になってたという拍子抜けな感じだ。しかし、デイヴィッドという主人公の存在は、多様なエピソードをつなぐ接着剤のようなもので、彼自身は、さほどの見識もなく、価値判断もしない。だから、性格の一貫性がないのは仕方がないなと思った。
『デイヴィッド・コパフィールド』は、物語の中に起こる数々の出来事を楽しむ小説なのだ。この小説がすごいのは、今の作家ならこれで本を一冊書いたなと思えるようなネタを(ユライア・ヒープのルサンチマン、スティアフォースの空虚感、マードストン姉弟の洗脳と寄生、ミスタ・ペゴティーの執念などなど)惜しげもなく、ばらばらとばらまいていくおもしろさというか、これをこんな感じで済ませてしまうんやという驚きというか、ここにあるのは主題化という形で洗練される前の読み物、読者は退屈を持てあまし、長くておもしろいものを求め、作者は全力でそれにこたえるという、そんな19世紀小説の余裕とすごみを感じるのである。