ホールデンは生き残れないのか J・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

 ぼくが最初にこの本を読んだのは、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』だったわけだが、それは学生時代のことだから、それこそ20年ぶりの再読ってことになる。以前読んだときのことは、ずいぶん痛々しい小説だったぐらいのことしか覚えてないんだけど、今回再読して思ったことは、教師や同級生たち、あるいは、社会そのものに対して、「インチキ」だとくりかえす主人公ホールデン・コールフィールドが、いやになるぐらい子供っぽいってことだ。
キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説は、一般的にインチキで汚れた大人の社会と無垢の魂をもったホールデンという少年という対立軸で語られることが多いような気がするが、サリンジャーが描くホールデンは、むしろ自分がすでに無垢ではないという事実から目をそらそうとしている少年である。
 ペンシー校を成績不振で退学になったホールデンは学校を抜け出して、ニューヨークの街を一人さまようが、そこから見えてくるのは、無自覚で未熟なお坊ちゃんの姿でしかない。ホテルで娼婦を呼んで、金銭トラブルでわあわあと泣きわめく。自分から呼び出した女の子にバカ呼ばわりする。おのぼりさんの女の子たちをナンパしたりもする。タクシーの運転手にくだらない質問をしてどなられる。
 そんなホールデンに対して、妹のフィービーは決定的な結論を下す。
「けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ」
「そうじゃない」と言うホールデンが好きなものを問われて、なぜか思い浮かべるのが、エルクトン・ヒルズ校で「うぬぼれの塊」という言葉の撤回を拒否して、窓から飛び降りた同級生のことだったりする。結局、ホールデンが口にしたのは、「僕はアリーが好きだ」という一言だ。フィービーは「アリーは死んでるんだよ」と絶望したように言う。ホールデンは、しかし、あくまで「無垢」に留まろうとする。ライ麦畑で遊ぶ子供たちが崖から落ちないように見張っていて、落ちそうな子供がいたらさっとキャッチする、将来はそんな人になりたいなんて言う、あるいは、フィービーの小学校で見つけた「ファック・ユー」という落書きを消そうとして、あきらめる。物語の最後に彼が語っている場所は精神病院であることが明かされるが、ほんとのところ、彼にできるのは『ナイン・ストーリーズ』のシーモア・グラースのように自殺するか、世の中を拒否して病院に逃げ込むかのどちらかしかない。
 なぜここまでホールデンは生きることにノーを突きつけるのか。それは生きることは殺すことだということを知っているからである。好きなものを問われて、死者しか思い浮かばないのはそのためだ。「殺さない」ということを究極の原理とするなら、自ら命を絶つ以外にない。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が発表当時、大きなセンセーションを巻き起こしたのも、生きることに対する根本的な問いかけがあったからにちがいない。
 訳者村上春樹サリンジャーの問いかけを引き受ける形で小説家として出発した。それはホールデン少年はどうすれば生き残れるのかという一言に尽きると思う。