辺境としてのダブリン ジョイス『ダブリン市民(ダブリナーズ)』

 20世紀文学に決定的な影響を与えたジェイムズ・ジョイスの代表作と言えば、『ユリシーズ』。「意識の流れ」という手法のイメージが強いジョイスだが、短編集『ダブリン市民』は、読みやすいリアリズム小説で、20世紀初頭のダブリンを舞台にした15の短編が作中人物の年代順に収められている。
 どの短編もとてもいきいきとごく普通の市民生活を送る人々が描かれている。老司祭の死を少年の目を通して描かれた「姉妹」、二人の少年が学校をさぼって港へ遊びに行く「邂逅」。だれもが体験する人生の一場面を描いているように見えるのに、とてもリアル。それは「変な感じ」を排除していないからだ。どうも亡くなった司祭は「変な人」だったらしいとか、少年たちが出会った男は何を言っているのかわからないとか、日常生活の中にある「変な感じ」をさらっと入れてくる。
 青年期、中年期になると現れるのが、ダブリンからの脱出願望と挫折感。「エヴリン」は恋人に外国で新しい生活を始めようと誘われる。ダブリンからの脱出願望を持つエヴリンは、同じぐらい強い未知の世界への恐怖感との間で葛藤する。「小さな雲」は、ロンドンで新聞記者として活躍する幼なじみに羨望のまなざしを向ける中年男の話。「ギャラハーのように、思いきった生活をしてみるには、もうおそすぎるだろうか? ロンドンに行くことはできないものか。? いや、家具の支払いがまだ残っている。だが、もし本を書いて一つ書いて出版されることになりさえすれば、おのずから自分の道がひらけるかもしれない」(安藤一郎訳)思いを強くした男はバイロンの詩集を読み出すが、その読書は子供の夜泣きに妨げられる。彼らは「終身刑の獄囚」のように、ダブリンにしばりつけられている。
 老年期に現れるのが、死の影や死者たちだ。「土くれ」では、かつて女中をしていた家族のパーティー招かれた女マライア(ちょっと頭が弱い?)が子供たちとゲームで死を予言する土くれをつかんでしまう。善良な女の描き方、そんな女にも容赦しないジョイスの描き方がなんとも言えずいい。こうした短編の最後に出てくるのが「死せる人々」。この小説はジョン・ヒューストンの遺作になった『ザ・デッド ダブリン市民より』の原作。老姉妹が毎年催す舞踏会に招かれた人々の群像劇。舞踏会の翌日、帰宅の途につく夫婦がご先祖や亡くなったかつての恋人の話をする。舞踏会は降霊術のように機能し、死者たちが顔を見せたところで、『ダブリン市民』も幕を閉じる。
 『ダブリン市民』のおもしろさは、15の短編一つ一つは独立した短編でありながら、短編集全体としては、歴史的、地理的条件を含めたダブリンという街の全体像が浮かび上がる野心的な試みにある。15の短編を、少年期から、青年、中年期を経て、老年期へと作中人物の年齢順に配列することで、時間の流れを感じさせる。また、ロンドンやヨーロッパ大陸との関係に、辺境としてのダブリンを見ることができる。
 余談になるが、ぼくが読んだのは昔の安藤一郎訳の新潮文庫版『ダブリン市民』。今の新潮文庫柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』。「市民」じゃ硬すぎるし、「ダブリナーズ」じゃ芸がない。『ダブリンの人々』ぐらいがいいんじゃない? みたいな話を友達としていたら、ちくま文庫版は『ダブリンの人々』になってることを知った。さらに岩波文庫版は『ダブリンの市民』。ややこしいね。