子供と大人の共同作業 武田百合子『ことばの食卓』

「長火鉢にかけた土鍋の中を、おばあさんは見つめて待っている。牛乳に幕が張ってくる。チカチカと皺が走って来たとき、骨太い人さし指で皮をついてひき上げ、開けた口をもっていって、ずるっとしゃぶる。「ほんとは、ここが一番のクスリのところ」そう言ってから湯呑に注ぎわける。私と二人の弟は、お風呂から上がると牛乳を飲まされる」(「牛乳」)
 
 完璧な文章、仮にそんなものがあるとすれば、それは武田百合子の書いたものだ、そんなことを言いたくなるほど密度が濃い。無駄がない。文庫版(裏表紙)の紹介文にはエッセイ集とあるが、ぼくは『ことばの食卓』は小説だと思って読んでいた。確かにノンフィクションかどうかという点から見れば、エッセイかもしれない。しかし、武田百合子の文章には、多くのエッセイに感じる作者の視点を中心にした遠近感がない。だから、書かれていることの意味を理解する前に、武田百合子の書いている世界に投げ出される。意味づけされる前の世界を読者に見せることができる。なぜそんなことができるのだろうか。
 ちくま文庫版の解説で種村季弘は「コドモ」というキーワードをあげている。確かに、武田百合子は、子供が好きなものを好む。たとえば「後楽園元旦」。武田百合子は、娘と二人で正月早々サーカスを見に行く。娘といっても子供ではない。大人ふたりが、いわばこどもの国へ乗り込んでいく。うどん、おでん、揚げソーセージ、ポップコーン…。ジャンクフードの匂いが充満した会場で、お目当ての白いトラが登場する。「がおーん、と虎がひと声吠えるごとに、本年最初の幸せな気分に私は浸っていった」。目の前にあるものに対する驚きはあっても、感慨はない。感慨とは距離感のことである。種村季弘は言う。「コドモの食べるものをげんに手づかみで食べている中年婦人の現在が、それを食べていた童女の過去から切れ目なく続いているのである」(「解説 コドモの食卓」)
 ほんとうにそうだろうか。一見、子供の視点で書かれた文章に大人が顔を出すことがある。サーカス会場周辺がすでに子供だらけなのを見た百合子さんは「今日はどんな子供でも可愛いと思わねばならぬ」と言う。気のはやる子供百合子を大人百合子が監視しているのである。
「続牛乳」の最後にほんの一瞬現れる悔恨の言葉。あるいは「キャラメル」で描かれる工作好きな兵隊さんの泣き笑いの表情。その表情を描く武田百合子の中には、何にもわかってない子供とぜんぶわかっている大人が同時に存在している。自由闊達な子供百合子の文章に大人百合子が顔を出す一瞬、遠近法とは異なる「奥行」を武田百合子の文章から感じ取ることができる。子供百合子と大人百合子の共同作業が、武田百合子の文章を特別なものにしている。