絡み合う髪 朝吹真理子『きことわ』

この小説のすごさをどう説明すればいいだろう。新潮文庫版の解説で町田康は「そこには夢と脈絡が調和を保ち、いずれ死ぬる私たちが平生、けっして感知・感覚できない景色がある」「官能という言葉の本来の意味での官能小説である」と述べている。意味づけたり、取捨選択したりことなく、私と世界をまるごと記述するという試みが多くの作家によってなされてきた。カフカプルースト、南米のマジック・リアリズム、日本では内田百閒、島尾敏雄筒井康隆川上弘美武田百合子などの作家たちが意識と夢を文章のレベルで融合させる作品を書いている。朝吹真理子の『きことわ』には、そうした作家たちの最もすぐれた作品を読むのと同じかそれ以上の驚きが、実にさりげない文章の中に満ちている。
 ぼくたちの人生は何によって意味づけられるのか。そんなことは人によって違うにきまっているが、社会から意味の侵食を受けているという事実にどれだけの人が自覚的だろうか。社会は教育し、導き、人に有用性を帯びさせようとする。それを受け入れられなければダメ人間なのだが、芸術はしばしばこのダメ人間を主題化する。ダメ人間の見ている景色、感じているもの、それは社会化の過程で失われたものかもしれない。町田康はそれを官能という言葉で表現した。官能をすぐに性に結びつけるのは、性が私的領域にとどまっていると信じられているからだが、それもうそ。いわゆる官能(小説)は徹底的に社会化され尽くしたポルノにすぎない。
 七つ年の離れた貴子と永遠子が最後に葉山の別荘で会ったのは、貴子が小学三年生で八歳、永遠子が高校一年生で十五歳だった。二十五年前の夏のことである。その別荘が解体されるのを契機にして、二人は再会を果たす。とはいえ、そこに劇的な要素はない。二十五年前の夏、貴子の母親が運転する車の後部座席で、貴子と永遠子は遊び疲れて絡まり合いながら眠っていた。そんな夢を永遠子は今も見る。
貴子と永遠子の再会は、絡まり合う二人の人間の官能的領域を再び活性化させたのにちがいない。しかし、そこに意味を見出すことはできない。官能は、それ自体として存在するだけだ。貴子と永遠子が、小説の中で官能的領域にとどまる以上、町田康が描く作中人物たちのようにあからさまではないが、官能におぼれる危険性がある。貴子と永遠子の絡まり合った髪は、夢の中では二十五年前のままで、その夢が現実を侵食する瞬間が現実と地続きになっていることに大きなショックを受けた。一見さりげない日常と夢で構成されている『きことわ』は官能の快楽とともに、その危険性を実に鮮やかに描いている稀有な小説なのである。