漱石「唯一の」三人称小説 夏目漱石『明暗』

  夏目漱石の『明暗』は、いろんな意味で特別な作品である。漱石の最も長い長編であり、作者の病没により、絶筆となった未完の作品でもある。そして、ぼくがこの小説を読んで、何より驚いたのは、『明暗』が堂々たる三人称小説だったことだ。もちろん、漱石の小説はずっと三人称小説だった。『三四郎』だって『それから』だって、『門』だってそうだ。しかし、それらはすべて主人公が視点人物であり、他の作中人物は、あくまで主人公の目を通して描かれる。そういう意味で『明暗』以前の漱石の小説は、形式上の三人称小説だった。その小説世界は、主人公の世界に等しい。
 たとえば、『それから』の主人公長井代助は、三千代を愛しているように見えるが、彼女と結ばれることによって、自由で気ままな生活が壊れることを恐れている。小説は代助以外の視点を持つことはなく、三千代は代助のイメージでしかない。したがって、『それから』は、代助が自らの世界を飛び出そうとするところで幕を閉じる。『明暗』は、そうではない。漱石の小説で初めて、複数の作中人物の視点から描かれた小説なのである。
 津田とお延夫婦は新婚だが、夫婦仲はうまくいっていない。お延は夫が何かを自分に隠しているのではないかと疑っている。お延と結婚する前、津田は、清子という女性とつきあっていた。津田と清子は結婚寸前まで行きながら、突然、清子は理由も告げずに津田のもとを去り、別の男と結婚してしまう。津田はお延との結婚後も清子のことを忘れられなかった。津田は会社勤めをしているが、その会社の上司夫人が吉川夫人である。吉川夫人は、津田に清子を引き合わせた人物であり、津田とお延夫婦の媒酌人でもある。清子が療養のためとある温泉に滞在していることを知っていた吉川夫人は、痔の手術で入院中の津田を見舞い、津田に同じ温泉で転地療養することを勧める。吉川夫人に旅費や休暇の都合までつけてもらった津田は、清子に会うべく温泉地へと旅立った。
 あらすじを記せば、ざっとこんな感じだが、『明暗』は、作中人物の様々な思惑が絡まり合い、ぶつかり合いながら物語が進んでいくとてもスリリングで、心理戦のような小説だ。主人公の津田が自己に拘泥する身勝手な男という点は、これまでの漱石の小説と同じだが、『明暗』には、津田の妻お延や吉川夫人、さらに津田の友人で有産階級に属さない小林という男や津田と不仲の妹お秀。そうした作中人物が、自分の考えを持ち、主人公の思惑とは異なる行動原理で動く、生身の人間として描かれている。
 おもしろいのは、女性の描き方だ。これまで漱石の小説に登場する女性は、主人公が理解できない異文化/他者として登場したが、『明暗』では、悩み、怒り、自己主張する。特に、あたかも人間関係の支配者のようにふるまう吉川夫人は、『明暗』のキーパーソンであり、最も不気味な存在だ。派手好みで、自分の意見をはっきり言うお延を嫌うが、損得勘定にたけ、彼女の意のままになる津田をかわいがっている。
 なぜ清子は自分のもとを去っていったのか、そんなことを日々思い煩っている。既婚者でありながら、かつての恋人(しかも今は人妻)に会いに行く。会社の休暇や旅費の都合は、吉川夫人につけてもらう。そんな津田は、自分を学問があるひとかどの人物だと思っているが、津田の傲慢さ、不誠実さは、無産階級に属し、仕事のために朝鮮へ行くことになっている小林に嫉妬や軽蔑の対象にされ、妹お秀の怒りを買う。そして、妻お延の不信感を生むのである。津田は、自分のことしか考えず、周りが見えていない、これまでの漱石的主人公と変わらないが、『明暗』には、津田の周りに津田以外の世界がある。津田は「世界」に投げ込まれたのだ。
 この漱石の変化について、柄谷行人新潮文庫の解説でドストエフスキーの影響を指摘しているが、『明暗』は、まるで別の作家によって書かれたかのような印象を受け、同時に漱石でしか書けないと納得させられる名作だ。「世界」に終わりはない。結末は読みたいけど、『明暗』という夏目漱石「唯一の」三人称小説として、未完は、ふさわしい気がする。