漱石を書き継ぐ 水村美苗『続明暗』

 未完に終わった『明暗』の続きを読みたいと思った読者は多いにちがいない。津田とお延、そして清子の運命を想像した人、書いてみたいなと考えた人だっているだろう。しかし、それを実行に移すとなると、ものすごい勇気がいる。なにしろ国民的作家夏目漱石の傑作を書き継ぐのである。「蛮勇」と言ってもいいぐらいだが、水村美苗という作家の動機を支えたのは、お話の続きが読みたいという単純な出発点だったのだと思う。
 最初の章が漱石の原文(『明暗』末尾の章)から始まる『続明暗』は、漱石そっくりの文体で書かれている。しかし、『明暗』そっくりに書くこと、それ自体はこの小説の目的ではないと水村美苗は言う。「『続明暗』を読むうちに、それが漱石であろうとなかろうとどうでもよくなってしまう―そこまで読者をもって行くこと、それがこの小説を書くうえにおいて至上命令であった」(「あとがき」)
 水村美苗は、その目論見に成功した。漱石の『明暗』を読んですぐ読み始めた『続明暗』は、言葉遣いから話の筋のレベルに至るまで、実に丁寧に漱石の張り巡らせた伏線を回収し、解釈する作業の中から紡ぎだされた物語だからである。
『明暗』は、なぜ清子は自分のもとを去っていったのかという主人公津田の疑問をめぐる物語である。そうである以上、物語のクライマックスは、その問いと答えが当人同士の口から洩れる瞬間であるだろうし、それに説得力がなければ、『続明暗』を書く意味はない。
「何故突然僕のことが厭になられたんです」という津田の問いかけに対する清子の答えは、ぼくにはとても納得できるものだった。津田という人間のどこまで行っても本体に触れられない悲しみ、それは津田が感じるのではなく、津田と付き合う人間がかんじるものだ。エゴイズムというのは、結局のところ、空っぽさのことだと、『明暗』と『続明暗』は伝えている。
 温泉場にやって来た翌日、姿が見えなくなったお延を捜しに出た津田は、次のように思う。
「遅過ぎるかも知れない、間に合わないかも知れないという思いは、もう間に合わないだろう、間に合う筈がないという思いに変わって行った。凡ての機会を逃して今の今まで遣って来て、最後になってだけ間に合う筈はなかった」(二百八十六)
 ぼくは漱石の『それから』を読んで「なぜ遅れるのか」という問いを立てたが、その答えの一つをここに見たような気がする。遅れとは、ある種の傲慢さに由来するのである。そして、患部が悪化し、局部から出血しながらも、なおお延を捜そうとあせる津田の滑稽な姿は、「世界」に放り込まれた漱石的主人公のクライマックスにふさわしい。必死にならないとダメなときは、必死になるべきなのだ。漱石は、草葉の陰できっと『続明暗』をおもしろく読んだと思う。