「僕」を閉じ込める 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 

二つの長編は全くの別物

 昨年(2023年)4月に長編『街とその不確かな壁』が刊行された。この作品は1980年『文学界』9月号に掲載された中編小説「街と、その不確かな壁」がもとになっている。同時に、この中編小説は1985年6月刊行の長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の原型でもある(このあたりの経緯は長編『街と不確かな壁』の「あとがき」に詳しい)。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』から40年近い時を経て、村上春樹は同じモチーフを新たな長編として世に問うた。この機会にたいぶ忘れていた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を再読し感じたのは、二つの長編は同じモチーフから出発した物語でありながら、全く別物であるということだ。まずは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』から見て行こう。

どうして僕なんだ?

「実は君は世界を救う鍵を握る人物だ」「えっ? どうして僕なんですか」

そんなやりとりが多くのアニメや小説で繰り返されてきた。ぼくはそれを〈世界〉指名型の話型と勝手に呼んでいるが、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はいわばこの話型のパロディである。「ご指名」はあるが、それは「世界」を救うためではなく、「世界」を終わらせるためなのだ。

 本書は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの小説世界が交互に現れ、別々に進行するという形式で書かれている。「ハードボイルド・ワンダーランド」で計算士なる職業の男「私」は東京の地下深くに秘密の研究室を構える在野の科学者の老人に呼ばれ、「シャフリング」という脳内で行うデータ処理を依頼された。実はそのシャフリングそのものが「私」が特別な存在である証だった。シャフリングが行えるように脳内に細工を施された計算士たちは「私」以外すべて原因不明の死を遂げていたのだ。

「私」の脳内には老科学者が「世界の終り」と名づけた堅固なイメージがあり、終わろうとしていたのは、彼の脳内イメージの「世界」だった。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はどこまでも内向きの物語なのだ。

他者としての闇

「このままじゃ世界が終っちゃうのよ」

シャフリングを行った後、「私」は自分の部屋で謎の二人組の男に襲われた。めちゃくちゃにされた部屋の中で「私」が眠っていると、老科学者の孫娘が「私」を揺り起こす。彼らは再び地下の研究室を目指すが、そこも何者かに襲われ、老科学者の姿はなかった。残された手掛かりをたどって、二人はさらに深く東京という大都市の地下世界をさまようことになる。

 そこに棲むやみくろという地下世界の化物は、のちの村上春樹の作品群で展開される主要モチーフの萌芽と言えるだろう。やみくろや蛭の大群は大都市東京の陰画だ。やみくろは地上に住む人間を激しく憎んでいるというが、本書で唯一強い異質性/他者性を帯びた存在である。本書においては、やみくろに象徴される地下の闇が現実の世界を脅かす他者性を持っている。

 しかし、やみくろの他者性が十全に発揮されるためには、さらに後年の村上春樹作品を待たなければならない。やみくろたちは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中では、まだ「ハードボイルド・ワンダーランド」の冒険感を演出する化物として機能するにすぎない。「私」と孫娘はその不気味な存在を肌で感じながら、その脇を通り過ぎるだけだ。

「世界の終り」

 老科学者の説明によると、シャフリングという計算方法を脳内で行えるのは、「私」がもともと他人にはない堅固な脳内イメージ「世界の終り」を持っていたからだ。老科学者は自らの手で開発したシャフリングという技術の危険性を認識し、「私」を手術で救おうとするが、計算士たちの対抗勢力である記号士たちの襲撃などにより、想定していた時間内に手術ができなくなってしまう。その結果、「私」の意識は消滅し、「世界の終り」というイメージの中に閉じ込められてしまう。小説の中での説明されているように、これは死の直前のイメージが永遠に続く「不死の世界」。それが「私」の脳内にある「世界の終り」である。

影、夢読み、図書館の少女

「世界の終り」は物寂しく、静けさに満ちた世界だ。高い壁に取り囲まれた寂れた街。その街に入る唯一の門をくぐるには、影を捨てなけらばならない。「僕」から切り離された影は門番の小屋に留め置かれる。街に暮らす人々はみな影を持たない。「僕」は門番に目を傷つけられることにより「夢読み」としての資格を得、街の図書館で一角獣の頭骨に閉じ込められた古い夢を読む。図書館には「僕」の夢読みの助手をする少女がいる。

 村上春樹はしばしば運命の女、主人公にとってその人物のアイデンティティの一部を形成するような女が出てくる(長編『街とその不確かな壁』ではこの側面がよりはっきりしている)。この図書館の少女もそうだ。「僕」は彼女に見覚えがあるといい、壁の外の世界で出会っているのではないかと尋ねている。実際に壁の外に追放された少女の影と出会っていたかはどうでもいい。大事なのは「僕」がそう感じ、それを理由に少女を愛し始めているという事実である。

 忘れてはいけないのは「世界の終り」は「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公「私」の脳内イメージであるということだ。「僕」は壁に脅威を感じながらも、実はそれに守られ、壁の中で「私」の脳内イメージの一部である少女を愛しているというかなりグロテスクな入れ子状態を形成している。

 いわゆる「僕三部作」は世界といかにかかわることを避けるかをテーマにしており、その三部作の次に位置する本書はデタッチメントを村上春樹らしい文学的想像力で展開して見せた作品だと言えるだろう。

脱出と閉じこもり

「僕」は門番小屋から影を助け出し、二人で街を脱出する計画を実行する。影によれば、街を唯一脱出できる場所は「南のたまり」だという。東から流れる川は街を西へと横切り、さらに南へと向かい、南の丘付近で地下に吸い込まれて消える。その「たまり」から壁の外へ出ようというのだ。冬の間にすっかり衰弱し切った影を連れて、なんとかたまりにたどり着いた「僕」は「たまり」からの脱出をせず、街に残ることを告げる。「僕」は「この街を作った責任がある」という意味のことを言う。脱出するのは影だけで、「僕」はこの街で永遠の「世界の終り」を生きる決意をする。

 この結末をどう理解するべきだろうか。ひとまず究極の引きこもりが完成したとみていいだろう。一方で影は脱出する。現実の世界は影が生きるところでしかない。所詮この世は仮の宿みたいな発想は今に始まったことではないが、引きこもる場所が自分の脳内だというのは、驚きというか、他者とかかわらないというのはそういうことなんだと妙に納得させられる。いずれにせよ「僕三部作」を経て書かれた、本書『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は村上春樹デタッチメントの集大成と言える。

『街とその不確かな壁』

 村上春樹の作中人物が「世界」に対して直接呪詛の言葉を投げつけるのは『ダンス・ダンス・ダンス』になってからである。「(僕は)心の底から、激しく、根源的に、世界を憎んだ。(…)僕は無力であり、そして生の世界は汚物にまみれていた」(『ダンス・ダンス・ダンス』下巻40章)。「僕」を閉じ込める儀式的な文学行為は汚物にまみれた世界を生きるために、村上春樹が書き続けるために必要な通過点だった。さらに人生の終盤にさしかかった作家がそのときはそれでいいと思っていたことが、だんだん異なる対応がありうるのではないかと思い始め、長編『街と不確かな壁』を書くのだから、この「壁に囲まれた街」というイメージは、村上春樹にとって自身の想像力の原型なのだろう。そして、その根幹にあるのは「初めから損なわれている」という思いだというようなことをできれば次に書きたいけど、いつになることやら。