瞬間をとらえる ヴァージニア・ウルフ『壁のしみ 短編集』

 ヴァージニア・ウルフの代表作『燈台へ』や『ダロウェイ夫人』は、ごく平凡な日常を思わせることばで始まる。「ええ、もちろんよ、あしたお天気さえよければね」と、ラムジイ夫人が云った』(『燈台へ』中村佐喜子訳)とか、「ダロウェイ夫人は、自分で花を買ってくると言った」(『ダロウェイ夫人』近藤いね子訳)とか。
 どちらの小説も特別なできごとは起こらないと言っていいかもしれない。しかし、「意識の流れ」という手法を代表する作家の一人であるウルフの小説で読者が知るのは、内的体験の起伏と陰影に富んだ世界である。とある瞬間にどれだけのことがつまっているのか、それをどのように表現するのか、そうした問いと答えの集積がヴァージニア・ウルフの小説だといえる。
 文学史的に言えば、ジョイスプルーストの影響を受け、「意識の流れ」という手法を駆使した20世紀のモダニズムの作家ヴァージニア・ウルフということになるが、実際にウルフの小説を読むよろこびは、そのときを生きているという実感に近い。
『壁のしみ 短編集』は、15篇の短編が年代順に収録されていて、それぞれが独立した作品として楽しめるのはもちろんだが、ウルフの小説手法の試行錯誤が表れている点も見どころになっている。ウルフは現在、フェミニズムや同性愛の観点から論じられることが多いが、現在よりはるかにそうしたものに不寛容な時代に、「自分だけの部屋」を必要としたウルフがどれだけ生きにくさを感じていたかは、容易に想像できる。そういうウルフの生きにくさとウルフの文学的手法としての試みを分けて考えることはできないと思う。
 印象的なのは、光、影、風のそよぎ、声、音、映像(鏡、窓枠)といった要素がくりかえし現れること。描かれるのは「無数の印象のアトムが意識に刻みつけるパタン」だ。話の筋はなく、公園の男女や植物、ツグミ、カタツムリなどを順に点描する「キュー植物園」は、まさにモネの睡蓮の連作など光と影をとらえようとした印象派絵画。
 長編『ダロウェイ夫人』の原型と思われる「ボンド街のダロウェイ夫人」は手袋を買いに出かけるダロウェイ夫人の意識を通して外界の出来事が語られる。同様の手法を使ってはいるが、「新しいドレス」は語り手の劣等感と疎外感が強く、痛々しい。
「姿見のなかの婦人−ある映像」では、部屋の中にある姿見に映った庭の老婦人の姿を見て、語り手が老婦人の人生について様々な思いを巡らせる。汽車に乗り合わせた女の人生をあれこれ想像する「書かれなかった小説」。どちらも最後に思わぬ展開が待ち受けているが、老婦人や女に対する語り手の想像が正しくなかったというより、私たちを取り巻く世界をその瞬間において捉えようとする試みは、つねに刻々の変化にさらされているということだと思う。
「ラッピンとラピノヴァ」は、新婚夫婦が作り出した自分たちだけの想像世界が広がり、そして消えていくまでをおとぎ話風の文体で(翻訳は「ですます体」)描かれる。夫は想像力豊かな妻につきあっている程度だったかもしれないが、妻はその想像世界に支えられて、現実をなんとか生き延びていた。幻想が現実世界を生きる支えになるというお手本のような話。夫の実家で開かれたパーティーでのこと。晩餐の熱気、舅、姑そういうものに妻はもう失神しそうになる。そして心の中で叫ぶ。「(ソーバン一族は)この人たちはどんどん増えていくのよ」
「どんどん増えていく」(!)これがなぜ怖いのか、わからない人には決してわからないと思う。ずっと続くもの、増えるもの、こうしたものが正当性をもって迫ってくる現実が怖いのだ。こういう感性とウルフが突きつめようとした手法が不可分であるような気がしてならない。
 ヴァージニア・ウルフはさまざまな手法を駆使して「瞬間」をとらえることを試みた。しかし、それは「瞬間」であるがゆえに、うつろっていく。ウルフの小説の魅力はそこにある。