「生真面目な」ヴォネガット カート・ヴォネガット『プレイヤー・ピアノ』

 カート・ヴォネガットと言えば、『タイタンの妖女』『猫のゆりがご』『スローターハウス5』『母なる夜』など、奔放な想像力、空間や時間を自在に行き来する構成、世界をまるごとひっくり返すシニカルな視点でSFという枠にとどまらない小説世界を築き上げているが、ヴォネガット最初の長編にあたる『プレイヤー・ピアノ』は、拍子抜けするほど「正攻法」というか、のちに様々な形で展開される「個人と社会」という古典的テーマが真正面から描かれている。
 あらゆる生産手段が機械によって自動化され、コンピュータで管理される世界。そこでは管理者(マネージャー)と技術者(エンジニア)と呼ばれる一握りの人々がシステム維持の仕事にあたり、すべての人々の運命はスパコンのおばけのようなコンピュータが握っている。そこでは労働者の尊厳は奪われ、生産性と効率のみが重視される。IQが低い人間は「ドジ終点部隊」に配属され、道路の補修点検作業に従事する。
 ポール・プロテュースは若くしてイリアム製作所の所長という地位につく秀才だが、彼は中央の管理者たちから今以上に将来を期待されている。というのも、彼の父親は現在の生産管理システムを作り上げたジョージ・プロテュース博士だからである。アメリカ文学におなじみの「父と子」の関係性が、「個人と社会」というテーマに重なり合うとくれば、当然のようにポールが直面するのは自分の場所を獲得するための戦いである。ポールがどのようにして、管理者たる地位を捨て、コンピュータに支配された管理社会にNOを突きつけるのか、それは本書を読んでもらうとして、まだかたいつぼみのような生真面目さを持つこの作品は、のちの傑作群を考え合わせると、まさに書かれることに意味があった、ここを一回通過しないと先に進めないという意味でヴォネガットにとって重要な作品だと言える。
 すべてが終わったとき、ポールとともに戦ったらラッシャーは言う。「勝ち負けは問題じゃないんだよ、博士。われわれは試みたという、そのことが重要なんだ」 
 負けからの始まり。くりかえし人間の終末的愚行を描いたヴォネガットにふさわしい始まりだと思う。