ジョー、メグの結婚にうろたえる オルコット『若草物語』

 

 オルコットの『若草物語』を読んでみようと思ったのは、映画『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』(2019)を見たから。その映画には四姉妹の姿がいきいきと描かれていた。喜び、悲しみ、あこがれ、恋、嫉妬、挫折…。さまざまな感情が彼女たちの中を通り過ぎていく。それに感動したという話を女友達にしたら、その感動には偏見が含まれてないかと言われて、なるほど、そうかもしれないと思った。自分の中にステレオタイプの少女像があったことは否めない。そもそも読書体験からして違う。『若草物語』だけじゃない。『赤毛のアン』も『あしながおじさん』も読んでない。

若草物語 第一部』(本書『若草物語』に該当)は1868年、オルコット36歳のとき出版された。長女メグ(マーガレット)16歳、次女ジョー(ジョゼフィーン)15歳、三女ベス(エリザベス)13歳、四女エイミー12歳の四姉妹の一年の物語。責任感が強く、働き者のメグ、作家志望でお転婆のジョー、内気で心優しいベス、甘えん坊でちょっとわがままなエイミー。オルコットはこの半自伝的な物語で、様々なエピソードを通して、四姉妹の成長を描いていく。

 一方で訳者麻生九美の「解説」にもあるように、当時はピューリタン的な道徳観、宗教観が支配的であり、『若草物語』もまた、そうした宗教観、道徳観を共有している。男性支配が色濃い厳格な道徳観が彼女たちの日常の一部であったのもまた事実だ。しかし、オルコットが描く『若草物語』では、宗教観や道徳観といった当時の常識に作中人物がとらわれるのではなく、それらが彼女たちの日常にあったから描かれている、そんな印象を受ける。父親が南北戦争の従軍牧師として戦地に赴き、家庭に不在であることも『若草物語』における家庭がのびのびとした雰囲気にあふれる理由のひとつだ。

 第十一章「実験」では四姉妹が一週間の間、仕事は何もせず、ただだらだらと遊んで暮らそうという「実験」を試みる。この多分に教訓的なエピソードは、だれもが想像するとおり、彼女たちは退屈と不便で音を上げ、労働や勉強の大切さを実感するという結末を迎える。しかし、その一方でこのエピソードは四姉妹に家庭にいる限り、ぜいたくな「退屈」、つらいことも、はずかしいことも、くやしいこともない、そんな「退屈」を与えてくれる場所だということも物語っている。

 このように考えると、『若草物語』は「家庭」という場をめぐるうちとそとのお話のようにも読める。外には彼女たちを恥ずかしがらせたり、恐怖に陥れたり、悔しがらせたりして打ちのめす「外敵」が実にたくさんいる。第六章「壮麗な宮殿」でベスは憧れのグランドピアノを弾くため、お隣の屋敷を訪れる。屋敷の年配の主人ローレンス氏はいちばん恐ろしい「ライオン」だった。ベスはその関門を通過しないといけない。

 第九章「メグ、虚栄の市へ行く」では、メグが上流階級のモフェット家のパーティーに招待される。気後れしながらも精一杯のおしゃれをして出かけて行ったメグはそこでみすぼらしい服を着た貧しい娘がお金持ちの結婚相手を物色に来たのだと思われて、屈辱にまみれて帰ってくる。メグを慰めようとした母親はお金や家柄より、大事なのは愛情だということを言って聞かせ結婚の尊さを説く。すかさずジョーは「結婚なんかしなくてもいい」というが、「すばらしい男性に愛され、妻に選ばれるのは、女にとって一番幸せなこと」という母親の言葉は結婚に対する当時の価値観を表しているし、その価値観を信じている保守的な人たちは今でもけっこう多いんじゃないだろうか。

 第一九章「エイミーの遺言」では、猩紅熱にかかったベスからの感染を避けるため、エイミーが大の苦手にしているマーチ伯母の屋敷で一人過ごすことになるというエピソード。マーチ伯母は保守的な価値観の権化のような存在で、エイミーをうんざりさせ、「恐ろしいクモの巣にかかったハエのような気分」にさせる。末っ子のエイミーはいかに自分が愛され、甘やかされていたかに気付く。

 作者オルコットの分身で、いちばんお転婆なジョーだけがこうした外の世界とのイニシエーション的な出会いが描かれていない。彼女はローレンス氏やマーチ伯母とも対等に渡り合うし、隣の少年ローリーを家族ぐるみのおつきあいに誘い込んだのも彼女だ。瞬間湯沸かし器のようにかっとなって自分をコントロールできず、たびたび大げんかするが、そのことはここでいう大人への関門とは異なる。結局のところ、彼女だけが、本当の意味で「家庭」をつらいところだと感じていたのかもしれない。作家志望の彼女が書き溜めていたノートをエイミーに燃やされてしまったとき、なんだかこの人だけが外ではなく「家庭」に敵がいるなと感じておかしくなった。

 訳者の「解説」によると最後のメグの結婚に関するエピソードは当初予定されておらず、編集者の求めに応じて書かれたそうだ。少し早い気もするが、メグが結婚という形で「外」に踏み出していくのはとても納得がいく。彼女は物語の初めからピューリタン的価値観が求める「良妻賢母」型の女性に近かった。そして、それに一番うろたえたのは誰あろうジョーだったのである。

「あたし、この結婚に賛成じゃないんだ。でも、がまんすることに決めたから、反対だなんて、一言も言わない」

 ジョーが、ジョーのような価値観を持った女性が、だれにうしろめたさを感じることなく生きられる時代は来たのだろうか。少なくともオルコットが『若草物語』を書いていた時代は、そうではなかった。オルコットは時代を先取りしていた。フェミニズムの嚆矢と言われるゆえんである。