魂の両義性 フーケー『水妖記(ウンディーネ)』

 

 ドイツロマン派の作家フーケーによる異類婚姻譚。深い森を抜け、湖のほとりにある貧しい漁師の小屋に一夜の宿を求めた騎士フルトブラントは、そこで目の覚めるようなブロンドの美少女ウンディーネに出会う。いたずらっ子で気分屋のウンディーネは、かたときも落ち着かずフルトブラントになれなれしく森の話をせがんだが、漁夫に行儀の悪さをたしなめられると、今度は激しく怒りだした。「そんなにがみがみ言って私の思うようにさせてくれないのなら、あんたがただけこの古い煤けた小屋に寝ているといいわ」という憎まれ口をたたいて小屋を飛び出してしまう。
 実はウンディーネは水の精で魂を持たない。文庫の解説によると『水妖記』の元ネタは、16世紀の錬金術師・医学者パラツェルズスの古い文献であることをフーケー自身が明らかにしているという。「水精は人間の女のような姿をしているが、魂がない。人間の男に愛されてその妻になると、魂をもつにいたる。夫はその妻を水辺または水上で罵ってはいけない。その禁を犯すと、妻は永久に水中に帰ってしまう。しかし死別ではないから、夫は他の女を娶ってはならない。もし他の女を娶るならば、水精自身が夫の生命を奪いに現れることになっている」(『水妖記(ウンディーネ)』解説)
 パラツェルズスの記述はそのままフーケーの『ウンディーネ』のあらすじになっている。ウンディーネの状況に対してそのつど生じる反応のような激しい気性は、ウンディーネが魂を持たないから。パラツェルズスは「アダムに由来する人間」とは違って、水の精には魂がないとも言っていて、物語の背景には人間を頂点とするキリスト教的価値観があることがわかる。
 わがままで気まぐれな美少女ウンディーネは、フルトブラントと結婚することにより、魂を持ち、心優しくつつましい人間になった。しかし、フルトブラントの城で暮らすようになってから、ウンディーネの表情は憂いを帯びるようになってしまった。それはウンディーネが幸せでないと勘違いした伯父で小川の精であるキューレボルンがフルトブラントにたびたび嫌がらせをしかけたためでもあるが、それ以上にウンディーネが魂を持つようになったこと自体に原因がある。
フルトブラントと別れたウンディーネはキューレボルンに言う。
「こうして水の中に住んではいますけれど、私は魂を持って来たのです。だからこそ泣くこともできます。もちろんあなたには、この涙がどんなものか、まったくわからないでしょう。これは幸福の涙です。誠のある魂が胸の中に生きている者にとっては、どんなことも幸福になりますもの」
 この言葉は、彼女が笑っていても幸せではなく、泣いていても決して悲しいだけではないような文化的洗練の中に生きていることを意味している。何でも自分の思うようにならないと癇癪を起こし、気まぐれで無教養でいつも楽しげな美少女は、もういないのである。それもこれも魂のせいだ。『ウンディーネ』の冒頭を読んだとき、思い出したのは『崖の上のポニョ』。ポニョは魂なんか知らない。宗助は人間のポニョも魚のポニョもどちらも好きだという。その代り、世界は水の底に沈む。魂を持ったウンディーネはいわば無毒化されたポニョである。