「正しさ」をこえて 朝井リョウ『正欲』

 

「読む前の自分には戻れない」みたいなことが文庫版の裏表紙に書いてある。確かにそうかもしれない。「正しさを欲する気持ち」が本書のいう「正欲」だとすると、程度の差こそあれ、それを持たずに生きることはできないだろう。それがなければ、首尾一貫した人間としてのふるまいができないし、生きるということは、どこかに自分の立ち位置を定めるのと同義だと思うのだ。

 こんな風に書いている自分はどうしようもなく保守的だなとも思う。本書の作中人物である寺井啓喜は持論を妻や息子に頭ごなしに押し付けようとして、妻子との溝を深めてしまう。佐々木佳道が勤める会社の田吉幸嗣や佐々木の高校時代の同級生だった西山修らも、彼らの言動には自分たちの「正しさ」に疑念を持つ余地は全く見られない。

 朝井リョウという作家の筆は田吉や西山の偏見に満ちた言動を容赦なく描き出す。そして読者である私たちは彼らの視野の狭さに嫌悪感を抱くが、それができるのは、単に自分が小説の読者であるからに過ぎない。実生活の中では、ぼくは、田吉や西山のように自分の意見を正しいと信じて疑わない人間の一人だ。

 小説『正欲』の本筋とはやや離れたことを書いているが、もう少し自分を客観視することの難しさについて書く。自分を客観視することは難しい。なぜそう言えるかというと、自分が「自分の意見」だと思っていることは、たいてい社会のマジョリティの総意を内面化しているだけだからだ。そして、社会のマジョリティに属している人間はその自覚がない。自分を知る機会があるとすれば、他人からの指摘を受けるか、『正欲』のような小説を読むか、そんなところだろうか。

 社会にはそれを維持する機能が備わっていて、ときに「ダイバーシティ」とか「LGBTQ」のようなカウンター的な概念や動きを取り入れるが、『正欲』を読めばわかるようにそれもまたマジョリティが許容する範囲でしかない。枠組みやルールはその社会を維持するためにある。誤解のないように言うが、そのように形成される社会秩序を批判しているわけではない。

『正欲』という小説がすごいのは、佐々木佳道や桐生夏月、諸橋大也らの性的傾向を通して、ぼくら一人ひとりの性(生)のありようは、いわゆる社会の「正しさ」「常識」「あたりまえ」などと何の関係もないと言い切っていることだ。いったん何もないだだっ広い場所に放り出されたような気分になる。小説の中にもあるように、その孤独と恐怖に耐えきれず、多くの人は率先して自分を社会の常識と同期させようとする。

 人間がマジョリティの総意を内面化しなければ生きていくことができないとしても、本書『正欲』はそうした人間同士が「正しさ」を共有するのとは別のしかたで他人とつながる可能性があることを示唆する。小説の終盤に出てくる諸橋大也と神戸八重子の激しい口論は、互いの「正しさ」のぶつかり合いの中に相手とつながる可能性があることを教えてくれる。場合によっては、殺し合いになるかもしれない。それでもなお誰か自分以外の人間を求めるなら、そうする以外ない気がする。

 お互いが性的マイノリティであることから二人だけの特別な関係性が芽生えた佐々木佳道と桐生夏月は、異性に性的興奮を覚えないにもかかわらず、セックスのまねごとをする場面がある。この場面は、性的マイノリティという互いの共通項が作る最小単位の社会を抜け出し、佐々木佳道と桐生夏月が一人の人間として互いを求めた瞬間である。  

 人間いわば「正欲」という鎧を身にまとっているようなものだ。しかし、それはあくまで鎧であって、その中身は一人ひとり異なっている。そんな鎧を身にまとっていることさえ気が付かない人間が多いが、その鎧同士がぶつかることで、中身がはみ出したり、相手を求める行為の中で自然に(というか故意に?)その鎧を脱ぎ捨てたりする。『正欲』は刃を喉元に突き付けるような小説だ。その一方で自分以外の誰かのために「正しさ」を越えたり、脱ぎ捨てたりすることができるということも示している。

(2024年1月2日加筆・訂正)