奔放な想像力の冒険 イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』

『不在の騎士』は『木のぼり男爵』『まっぷたつの子爵』に続くイタロ・カルヴィーノの『我々の祖先』三部作の最終章。エスカルゴを食べるのを拒否して木の上で生活するとか、真っ二つの半身が善人と悪人になるとか、奇想天外な設定の三部作だが、中身は空洞で鎧兜だけの騎士アジルールフォが活躍する、文字通り『不在の騎士』も前二作に輪をかけて荒唐無稽なお話だ。
 時は中世、シャルルマーニュカール大帝)はイベリア半島を支配していたイスラム勢力との戦いに明け暮れていた。その閲兵式に臨む騎士たちの中に傷一つない純白の甲冑をまとった騎士がいた。
「して目庇をあげず、貴公の面を見せぬのは何ゆえか?」
「なぜなら、わたくしは存在しないからでございます、陛下」
 なかなかのインパクト。この一節だけで『不在の騎士』を読んでよかったなと思う。文学にもいろんなタイプがあるが、日常と地続きになっている小説は、読者と等身大の主人公が悩んだり、成長したりする。もちろん、それはそれで楽しんで読んでるんだけど、そういうのばかり読んでいると、つい、この小説の意味はとか、問題意識はとか考えるし、文学って辛気臭いなと思うこともある。でも、カルヴィーノはちがう。いや、ほんとは違わないんだろうけど、とりあえず。「わたしくは存在しないからでございます」なんて、どうぞ物語世界で遊んでってくださいねって言われたような気がしてわくわくする。
 意志と聖なる大義への信念によって、騎士アジルールフォは不在にもかかわらず、立派に騎士としての役目を果たす。実のところ、観念が鎧をつけているアジルールフォは、杓子定規で妥協を知らず、他の騎士からは煙たがられている。眠ることもしないアジルールフォは、兵士たちが寝ている間、野営地の天幕の間を歩き回り、夜明けを待つ。観念だから仕方がないが、ちょっとせつない。
 あるときアジルールフォはふとしたことから生じた騎士の名誉に対する疑惑を晴らすため、従者グルドゥルーとともに、かつて自分が救った王女を探す旅に出る。この従者グルドゥルーはアヒルでもカエルでも梨の木でも、自分の周りのものを自分だと思ってしまう「存在しておりながら、自分の存在しておることを知らずにいる男」である。ドン・キホーテサンチョ・パンサを思わせるコンビの遍歴と冒険の旅。
 現代文学で冒険たって、ことばだけでしょと思われるかもしれないが、さにあらず。「不在」がそうであるように、冒険もまた文字通り。好色な女城主との一夜などは、肉体がないからといって、セックスができないなどというのは、単なる発想の貧困に過ぎないことを痛感させられて、感動。
 混沌とした戦乱の世を駆け抜けた「不在」の騎士は、そもそもの初めの状態に戻ってしまうが、彼のあとを追う若武者ランバルト、不在の騎士を恋い慕う女騎士ブラダマンテたちの存在が希望も感じさせる。読み終わったときは、ちょっとした旅行から帰ってきたような気持ちにさせてくれるカルヴィーノの傑作。