ところできみたち、二人なの、一人なの? 柴崎友香『寝ても覚めても』

 朝子は大阪のとある高層ビルの展望フロアで、麦(ばく)という男の子に出会い、一目惚れ。やがてつきあいはじめた。麦は気のおもむくままに行動する人で、どこへ行くともなくふらっと出かけて数日も帰ってこないということがある。案の定、居ついていた野良犬が姿を消すように、麦はいなくなってしまう。数年後、朝子は東京に引っ越し新しい生活を始めるが、バイト先のカフェで麦と瓜二つの亮平に出会う。顔はそっくりだけど、気配りもでき、気さくな亮平は麦とはまったくちがうタイプ。朝子は亮平とつきあうようになって、麦のことは忘れたようにみえた。そんなある日、朝子は偶然テレビに麦が俳優として出ているのを見てしまい…。
 と、こんなふうにあらすじをまとめてみたところで、『寝ても覚めても』のすごさは1ミリも伝わらない。『きょうのできごと』以来、ストーリー性を排し、視覚にこだわることによって、独自の作品世界を築き上げてきた柴崎友香は、恋愛は見た目! というある意味、身も蓋もないテーマに切り込んでいく。『寝ても覚めても』において柴崎友香は、恋愛はどこで起こっているのかと問いかけるのだ。
 朝子は典型的な目の人だ。趣味は写真で、いつもカメラを持ち歩いている。「見えているもの全部をそのまま写真に撮りたかった」というぐらい写真が好きなのだが、それを仕事にしようという発想はない。写真を仕事にしたら? という友だちの問いかけに対して考える。
「わたしは、写真を撮って、撮った写真を見ることがおもしろいと思っているけれど、作品として表現したいなどという気持ちはなくて、今、笑っているはっしーにカメラを向けてシャッターを押して、プリントに出してその答えが返ってきて、あ、撮れてたと思って、そのおもしろさ以上のことを、きっと考えられない、と思った」
 ここには朝子の考え方が特徴的に表れている。朝子には何かを深める、突きつめるというベクトルがない。それを拒否しているのではなく、ただないのだ。そんな人が恋愛したらどうなるのか。麦との出会いと別れは次のように書かれている。
「彼の全部を、わたしの目は一度に見た」「麦が帰ってこなくて二年九か月経った」
 朝子のカメラアイが一瞬のうちに麦という対象を捉え、視覚に収める。その一方で麦がいなくなったあとの感情は言語化されることはない。これはヘミングウェイなんかの小説にあるような出来事が作中人物の心理を暗示するという手法ではない。朝子は自分の心の中で起こっていることを対象化しようとしないのである。これはとっても怖い。
「ただまっすぐに立ったその人の、全部を、わたしは一度に見た」
 亮平に初めて会ったときも、朝子はやはり彼をじっと見た。そして、亮平が麦に瓜二つであることにとまどいを隠せない。「その目は、五年前にわたしを見た、麦の目だった。だけど、麦のこんな表情を見るのは初めてだった。なんでそんな顔するの、と言いたかった」
 この一節の異様さ。今読み返してもぞっとする。かわいい言い方してもあかんぞ。朝子の目の前にいるのは、麦ではなく亮平だ。しかも、麦は朝子に何も言わず姿を消して五年が経っている。その経緯と時間をなかったことにして、亮平のなかに麦を見てしまう欺瞞。これが恋だというなら、やはり恋は病なのだ。
 だけど、好きだったんだよ、それに二人は瓜二つなんだからと朝子の異様さを打ち消しつつ読み進むと、もう一つの衝撃がやって来る。朝子が同じ顔という麦と亮平はさほど似ていないという事実が朝子の友だちの口を通して明かされるのである。いわゆる「信頼できない語り手」ってやつだが、小説も後半にさしかかったところで、柴崎友香は容赦なく、ストーリーの前提を突き崩してしまうのである。
 ところで、あまり感情を露わにしない朝子が狼狽する場面がある。友達のマヤちゃんちで亮平たち数人とクイズ番組(たぶん「世界ふしぎ発見!」)を見ていたときのことだ。解説役の荒俣宏が案内役の双子のタレントにこう質問する。
「『ところできみたち、二人なの、一人なの、どっち?』
 わたしは驚愕した。このように重要な問いをテレビで投げかけるなんて。やはり荒俣宏は恐ろしい人だ」
 朝子の不可解な狼狽ぶりは、ふだんあまり感情を表に出さないだけによけい気になる。まるで宇宙の組成に関する重大な秘密をふと荒俣宏が全国のお茶の間にもらしてしまったかのようだ。たぶん、朝子にとってはそうだったのだ。麦と亮平という本来は全く別々の人間であるはずの二人を、一人とする世界に朝子は生きているのだ。朝子が狼狽したのは、いずれ彼女が突きつけられる問いを荒俣宏が毒にも薬にもならないと思っていたクイズ番組で、不意に先取りしてしまったからにちがいない。そして、『寝ても覚めても』というのは、そういう小説だ。こっちが油断していると、がらりと音を立てて世界が入れ替わるその瞬間を突きつけてくるのである。
 そのあとの代々木公園でのお花見の場面からあとの怒涛の展開は、柴崎友香という作家の剛腕というか、凄みというか、こんなことってあっていいのかという思いで、朝子の暴走を見守った。ある時点まで麦の映像に支配されていた朝子が、ふと麦を見てこの人は亮平じゃないと思う。しかし、そのとき朝子はすでにいろんなものを失っていた。最後にカフェで同僚だった千花ちゃんが「あんたみたいな人がいちばん嫌い(…)気持ち悪い」と言う。「そう思うのは、仕方ない」と受ける朝子の言葉は、作者が読者に言っているようにも見える。朝子の身勝手なふるまいを恋愛ってそういうもんだというのは簡単だが、恐ろしさと気持ちの高ぶりで胸がしめつけられる思いがした。その題材や主人公からガーリーと評されたり、ほのぼのした日常を描く作家と思われたりする柴崎友香だが、実はしれっと過激なのだ。
 ここからは余談だが、いよいよ明日から濱口竜介監督による映画『寝ても覚めても』が公開される。「そっくりの男二人+女」はいかにもある種の映像作家の好みそうな題材。しかし、原作では麦と亮平は実はそっくりではないことがほのめかされるし、恋愛の思い込みや身勝手さが常識を突き破るレベルで描かれる。そういう部分を映画はどう描いているのか気になるところ。