働くということ その2 佐川光晴『虹を追いかける男』

「わたしは汗かきな人間だ。わたしはこれといって特徴のない人間だが、誰かがわたしに向かって、あなたはどのような人間ですか? と尋ねるならば、わたしは汗かきな人間です、と答えるだろう。これはいささかも比喩を含まない言葉であって(…)」(「生活の設計」)
 佐川光晴の『虹を追いかける男』には表題作と「生活の設計」の二篇が収録されている。「生活の設計」の冒頭「わたし」という言葉のくりかえしは、作中人物の強い自意識を感じる。それは自意識を感じさせない作中人物のあり方が主題になるような小説、たとえば柴崎友香の『フルタイムライフ』の主人公とは対照的である。
「わたし」と誰かがつぶやく瞬間、そこに自分と他人との境目が生じ、わたしがあなたではない根拠の説明を迫られる。「生活の設計」の主人公はとりあえず「汗かきな人間」という言葉で急場をしのごうとする。そもそもなぜ「わたし」がそんな説明を試みているかというと、彼が屠殺場で働き始めたからだ。
 職業選択の自由がある現代では就職が社会に出ることを意味し、どんな仕事をしているのかということがその人を規定する重要な要素の一つとなる。
学生時代から「勉強そっちのけで、第三世界アイヌだ山谷だ被差別だって上映会やシンポジウムをやってばかりいた」「わたし」は大学を卒業して都内の小さな出版社に就職した。その出版社の倒産を機に屠殺場に転職したのだ。本人がどのように説明しようと、「これみよがしに特権を否定するって格好で肉体労働者になるなんて(…)」と人は「わたし」の行動にいらだちや軽蔑を感じることになる。
「生活の設計」は作中人物に屠殺という極端な職業を選ばせることによって、「個人」と「世間」という古典的な主題を愚直に展開する。「わたし」はなぜ屠殺なんだと執拗に問いかける世間に対して、誰もが納得できる答えを見つけられずにいるが、それも当然で「私見によれば『個人』とは『世間』の圧力に耐え続けるなかでその都度かろうじて見出される程度のもの」という「わたし」が選んだのは、終わりのない戦いをつづけることだったからだ。抑制のきいた文体が主人公のヒロイズム的な行為のいやみを消し去っているが、表題作の「虹を追いかける男」は山谷で日雇労働をしながらアングラ演劇を続けていたという型破りな主人公が美化されすぎていて、いやみな感じが鼻についた。