「美しい人」の両義性 ドストエフスキー『白痴』

 ドストエフスキーを久しぶりに読んだ。ドストエフスキーの小説は熱量が高い。作中人物がみな濃い。その過剰さが魅力。ドストエフスキー自身が「無条件に美しい人間」を描こうとしたという『白痴』は違うのかと思いきや、やっぱり激情がほとばしる。
 小包ひとつ持って、療養先のスイスからペテルブルグに帰ってきたムイシュキン公爵は、故郷とはいえ、長く外国で生活していた公爵にとって、ロシアは未知の世界。しかし、純真でうそのない公爵の性格は、彼をとりまく多様な人物を惹きつける。別の世界からやってきたムイシュキン公爵はいわばよく磨かれた鏡のような存在で、彼の前に出ると、みな自分の属性がそれまでの文脈から離れて露わになるのである。
 ドストエフスキーは自分が書こうとしている「無条件に美しい人間」の先駆的な例として、ドン・キホーテディケンズのピクウィックを挙げている。ドン・キホーテの名が挙げられていることで、ドストエフスキーのいう「美しさ」が滑稽さ、過度な寛容と無防備さがあり、人々の嘲笑の的にもなりうるものであることがわかる。
『白痴』は、二つの三角関係が軸になって展開する。一つは公爵とナスターシャとロゴージン。もう一つは公爵とナスターシャとアグラーヤである。ナスターシャは誰もが振り返るような美貌の女性だが、養育者であった男と関係を持たされたという過去を持つ。その過去の屈辱が自己のアイデンティティに結びついてしまったせいで、わざと傲慢で派手な女を演じて生きている。ところが、公爵がナスターシャを一目見るなり、純粋な本性を見抜いてしまったので、ナスターシャは喜びと動揺で情緒不安定になってしまう。ロゴージンは、公爵とは対照的に粗暴で自己中心的な人物。ロゴージンは、美貌のナスターシャを我が物にせんとして大金を積むが、一方のナスターシャは、ロゴージンとの派手ですさんだ生活に自分の屈辱の担保を見出していたにちがいない。公爵とロゴージンの間を行ったり来たりしたナスターシャは、自分の純真さを認めてくれた公爵と「あばずれ」のお墨付きを与えてくれるロゴージンの間で引き裂かれてしまったのである。
 誇り高く気の強いアグラーヤは、三人姉妹の末っ子。美人で知られた三姉妹の中でも特に美しいエパンチン家の箱入り娘。二つ目の三角関係は複雑で、公爵は持ち前の率直さで、ナスターシャとアグラーヤのどちらも愛しているというのである。もっとも、その愛の質は違うのだが、いずれにせよ世間的に認められることではない。この三角関係には、二人の女性を同時に愛することはできるのかという主題に隠れて、誇り高くけがれを知らないアグラーヤが公爵を通して、汚辱のナスターシャに惹かれるという関係性も垣間見える。
 ムイシュキン公爵という極端な公平性と寛容を体現した人物を通して、清純と汚辱が交わり、清純を汚され屈辱に生きることを決意した女を再び引き裂き、傲慢と粗暴さを引き寄せる。「美しい人」がそうでないものを引き寄せ、相反するものが交わる契機になる。この両義的なありようは、はじめからドストエフスキーの意図したことだったのか、それとも書きながらそうなってしまったのかはわからないが、ここから逆に普通の人のあり方も透けて見えてくる。普通の人は適度に不公平で適度に不寛容なのであって、それは「選択」という形で生活の中に現れるものだ。選択の連続で自己のアイデンティティを確立するということは、人の歩みの後には、選択されなかったものの亡霊が次々に生じるということでもある。それができない人物が存在しうるのか、仮に存在しうるとしたらどのようになるのかという壮大な実験がこの『白痴』という小説なのだ。
『白痴』という長い小説には、多くの枝葉があって、脇役的な人物もとっても魅力的というか、現代の作家ならそれだけで一編の小説を書くのでは?と思わせるような作中人物が多数登場する。いつも奸計をめぐらせているレーベジェフ、自己顕示欲が強くシニカルなイポリート、虚栄心を満足させるため、ほらばかり吹いているイヴォルギン将軍、癇癪を起すこともあるが、気心のやさしいリザヴェータ夫人などなど、みな鮮やかな印象を残す。なかでも忘れられないのがガーニャ(ガヴリーラ・アルダリオノヴィチ)だ。頭はいいけれども、徹頭徹尾、平凡な男。作者は皮肉っぽくガーニャのようなタイプを次のように評している。「自分には才能がないという深刻な自覚と自分こそはりっぱに自主性をそなえた人間であると信じようとするおさえがたい欲求とが、たえず彼の心を傷つけてきた」「これとという才もなく、どこといって変わったところもなく、いや、変人といったところさえなく(…)」
 独創的であろうと願う気持ちばかり強くて、実際は何もできないガーニャタイプは、ある意味ムイシュキン公爵とは対照的な人物。こんな人物が実は思っているよりずっと多いのだとドストエフスキーはいう。ガーニャはムイシュキン公爵をねたみ、憎んでいるが、ガーニャのような男が世間の代表なのだとすれば、世間はムイシュキン公爵を理解することはおろか、その存在もきっと許さないだろう。ムイシュキン公爵とガーニャに代表される世間の対比。ロゴージンやナスターシャのような作中人物と二つの三角関係の衝撃的な結末に目を奪われがちだが、『白痴』の奥行のようなものはガーニャ的人物によって裏付けられている。ガーニャはぼくだと思った。