技巧の果て 松浦理英子『裏ヴァージョン』

裏ヴァージョン (文春文庫)

裏ヴァージョン (文春文庫)

 

  (ネタバレ)

 ホラーまがいの小説にアメリカを舞台にしたレズビアンの三角関係を描いた小説、さらには、人のいい初老の婦人が「全米マゾヒスト地位向上委員会」なる団体から覚えのないメールを受け取る話など、松浦理英子の『裏ヴァージョン』は十数編の短編小説とその読み手と思われる人物のコメントで構成され、読み進むうち、次第に小説の書き手と読み手の完成性が浮かび上がるという実に手の込んだ小説である。

 ぼくは松浦理恵子のいい読者とは決して言えず、『ナチュラル・ウーマン』や『親指Pの修業時代』を読んだに過ぎないが、ジェンダーや性の問題を主題にしてきた作家だと理解している。『裏ヴァージョン』でも作中人物の書く小説にはレズやSMなどが描かれ、そうしたものと無縁とは言えないが、本作において、ぼくが驚かされたのは、そういう先入観を気持ちよく裏切られたことだった。

 種を明かすと、『裏ヴァージョン』に登場する短編小説は家賃の代わりで、書き手の昌子は月に一作20枚以内の小説を書くという条件で、鈴子の家に住まわせてもらっているのだった。二人はかつて同じ高校の同級生で、現在は40歳独身。昌子はかつて何作かの短篇が文芸誌に掲載され、一冊だけだが本も出した過去がある。しかし、その後は小説家として書き続けることはできず、挫折を抱え込んだまま内にこもってしまっていた。鈴子が昌子に同居を誘い、家賃の代わりに昌子に小説を書かせることにしたのは、それが昌子にとって最高の遊びだと思ったから、そして昌子に笑顔を取り戻してほしかったからだ。

 しかし、物事はそううまくいかない。かつての親友としての気の置けない関係性を取り戻すとはいえ、20数年の歳月が流れているのであり、お互いに高校生の時のままではありえない。ここで大事なことは二人は性的関係で結ばれた恋人同士ではないということだ。夫婦という制度化された関係性からはもっとも遠い。

 変わっていくこと、環境に適応し、妥協を重ねていくこと、人は大なり小なりそうした変化を余儀なくされるが、私たちはそれを「成長」と呼ぶ。まるくなったねとか、大人になったねとも。鈴子は高校卒業以来そういう人生を歩んできた。しかし、それをよしとするほど「大人」でもない。昌子は鈴子にとってかつての自分を思い出させてくれる存在だ。一方、昌子は「成長」できないタイプだ。

 高校生の時は互いに辛辣な言葉の応酬があっても、それを一種のゲームだと思うことができた。しかし、二人が40歳になった今はそれらの言葉は互いの20年を照らし出す。昌子の書く小説の作中人物が、昌子と鈴子の実像に近づいていくのは、二人の心の距離が縮まっているのではなく、二人の間にあった距離がやりとりのゲームという技巧を超えてむき出しになっているということだろう。

「わたしは鈴子を自分のそばに引き止めておく努力をすべきだったのかも知れない。(…)むしろ、わたしたちの間には何かが起こらなかったのではないか、と問うべきだろうか。お互いにだいじな友達であり続けるための何かが」

「昌子を家にただで住まわせて好きなように遊ばせよう、というのが私の当初のもくろみだった。(…)昌子を変えたかったわけではない。むしろ変えられるものなら昌子を取り巻く世界の方を変えたかった」

 友達という利害や制度の制約を受けない単純な関係は、維持するのに意識的な努力がいる。ただの友達であろうとした二人の女が技巧の果てにたどり着いたのはひどく率直な感傷であり、二人の間にある埋めようもない20数年の時間の溝だった。