とどまることのない流れに印をつける 木皿泉『さざなみのよる』

「死ぬって言われてもなぁ」と死期の迫ったナスミは思う。43歳。癌にむしばまれた体はもう言うことをきかない。目が覚めると、生きていることにほっとしたり、体の辛さから解放されたくて、なんだまだ死んでないじゃんと思ったりもする。
『さざなみのよる』は、『すいか』『野ブタ。をプロデュース』などのテレビドラマの脚本でも知られる木皿泉の二冊目の小説。木皿泉が描くのは、変わらないものなんて、何一つないということ。そして、身近な人の死は、その事実を最も端的に突きつけてくる。物語は「第1話」でナスミの死が描かれ、第2話から第14話まで1話ごとに、夫の日出男、姉の鷹子、妹の月美など家族や友人、かつての会社の同僚たちがそれぞれのやり方で受け入れていく、あるいは、ナスミの死をきっかけにいろんな人がつながっていく。
 ちょっと意地っ張りで、言葉遣いもはすっぱなところがあるけど、裏表がなく人の考えていることを見通す観察眼を持つ。ブレない芯の強さを感じさせるナスミの生き方にいろんな人が惹きつけられる。一言でいえば、ナスミはかっこいい。
 そういうかっこいい人が死んで、その死に大きく動揺する。自分を省みて、ナスミを思い出して後悔したり、不安になったりする。ナスミに生き方を問われている気がするのだ。そんなとき「生きとし生けるものっていうのはさ、自分も入っているんだよ」なんて、ちょっとお説教臭いことを言ったりもするけど、それはもう死者の声なのだった。
 そういうバランス感覚が木皿泉にはある。ほんとうのことは、うそに仮託する。うそだとわかってるけど、それを信じる。一つだけ例を挙げよう。台所の柱に描かれたダイヤモンドの目。ナスミは生前、笑子ばあさんに頼んで、台所の柱に小さなダイヤモンドをくっつけさせ、その周りにマジックで目の絵を描かせた。その目のことは他の家族は知らない。ある日、かつてのナスミの同僚だった加藤由香里がやってきて、その目の存在とナスミからのメッセージを鷹子に告げる。
「お金にかえられないものを失ったんなら、お金にかえられないもので返すしかない」「ずっと見ててあげるから」
 これは子供だまし、茶番である。しかし、この実に真剣に執り行われる茶番が鷹子や加藤由香里を喪失感や痛切な悔恨から救うとしたら、そして、生きる力を得ることができるとしたら、それを茶番だとばかにすることはできない。というか、それが別の価値にすり替えられ、何者かにかすめ取られることがないものだからこそ、真実の力を持つことができるのである。ナスミの言う「お金にかえられないもの」というのは、そういうことだ。
 木皿泉の小説を支えるのは、変転し一時も止まることのない時間の流れを生きるというどうしようもなく心細い現実に、とっても頼りない、子どもっぽい印をつけること。逆説的だけど、だからこそ、それを信じて生きていくことができる。そして、そうしている間は、ナスミもだれかの心の中で生きている。
第14話まで読むと、変わって行くことのさびしさと同時にそれも悪くないなという思いがこみ上げてくる。すごく大きなものに触れた気がする。それってすごいことじゃないだろうか。