小は大をかねる 木皿泉『昨夜のカレー、明日のパン』

『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『Q10』などのテレビドラマの脚本で知られる木皿泉(和泉務と妻鹿年季子夫婦の共同ペンネーム)。本書『昨日のカレー、明日のパン』が小説家デビュー作。7年前に夫が病死してからもテツコは義父(今はカタカナのギフに変化したが)といっしょに住んでいる。結婚しようといってくる彼氏がいるけど、彼女は首をたてに振らない。そんなテツコとギフの奇妙な二人暮らしを軸に、笑えなくなった客室乗務員(タカラ)、バイクで事故って正座ができなくなった元僧侶などちょっと変わった人々が登場する連作短編集。
 ギフは酔うと饒舌になる。「人は変わっていくんだよ。それはとても残酷なことだと思う。でもね、でも同時に、そのことだけが人を救ってくれるのよ」「嫉妬とか、怒りとか、欲とか―悲しいかな、人はいつも何かにとらわれながら生きてますからねぇ」そんな格言めいたことを言ったりもする。ドラマならともかく、小説としてはうるさくも感じるこうした名言が出てくるたび、ギフうざーと思ったりもするのに、いつの間にかぼろぼろと涙をこぼし、チーンと鼻をかんでいる。これが木皿泉マジック。何でこうなる?
 木皿泉の世界は、小が大をかねる世界である。家族がいて、恋人がいる。あるいは、会社で働く。そのとき、人は相応の役割を担わされる。演じることを求められもする。損得勘定や社交辞令、社会的圧力がその人にどうふるまうのが「正しい」のかを教えてくれる。恋人からプロポーズされたとき「私は家族がキライ」と言ったり(「ムムム」)、知らない子供に500万貸したりする(「魔法のカード」)言動は、とても「まとも」とは言えない。
『昨夜のカレー、明日のパン』の登場人物たちは、何かにとらわれて生きるより、自由と孤独を選んでしまう。ギフと暮らし、岩井という人のいい恋人もいるテツコが孤独だなんておかしいと思うかもしれないけど、その孤独は日常を超え、大気圏を突き抜け、宇宙にまでつながっている孤独である。テツコが「人は必ず死ぬんだからね」というのも、夕子がもうすぐ死ぬ人が身のまわりにいると、涙が流れて止まらないのもそのせいだ。
 ギフは亡くなった息子一樹のことを「手品みたいにパッと消えた」と言った。タカラは一樹の形見としてもらった「雪だるまがスキーをしている人形」を元同僚の客室乗務員に託し、飛行機で飛ばそうと考える。その行為は小さなことかもしれないが、そうすることで、一樹は「パッと消えた」のではなく、空から見ていてくれるとギフに伝えたかった。ばかばかしいと言えばそれまでだが、「死んだら星になる」という空疎な言葉に実体を持たせようとする。小が大をかねるというのはそういうことだ。ある行為が多層的な意味を持って、突き抜けちゃうのである。
 「魔法のカード」の女の子は八木重吉の詩を暗唱する。

 わたしみづからのなかでもいい
 わたしの外の せかいでも いい
 どこにか「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
 (…)

 おそらく木皿泉は「ほんとうに美しいもの」の存在を本気で信じているのである。でも、それは私たちが年をとり、死んでいく、何もかも移ろいゆくという事実とコインの表裏を成している。