逃走劇の終着点 ジャン=フィリップ・トゥーサン『逃げる』

『浴室』のはなばなしい登場以来、ずっとジャン=フィリップ・トゥーサンを愛読してきた読者として、『逃げる』はトゥーサンの集大成であり、同時に終着点であると強く感じた。
 前作『愛し合う』の続編として書かれた『逃げる』は、恋人マリーと落ち合うため北京にやってきた主人公の「ぼく」が、本人にも理解できない状況に投げ込まれ、若い中国女性との情事や警察からの逃走劇が描かれる前半と、父親を急病で亡くしたマリーに会うためイタリアのとある島に向かう後半から構成されている。
 いわゆるヌーボーロマンの影響を受けた『浴室』や『ムッシュー』の何も起こらない状況や人を食ったような独特のユーモアは、バスター・キートンのコメディーに例えられたりもした。そういえば映画『浴室』で主人公を演じた役者はバスター・キートンに似ていたな。その後、『カメラ』や『ためらい』では一転、サスペンス的な要素を取り入れて確かに何事かが起こったのでは?と思わせる不穏な空気を作り出した。そう、かつてアントニオーニに『欲望』という映画があったけど、ちょうどそんな物事の存在と不在のあわいを描くような感じだ。
 そんなふうに作風の変化を遂げてきたトゥーサンだが、一貫した主題があるとすれば、それは「逃げること」だったのではないだろうか。『愛し合う』は東京→京都を舞台にけんかしたり、よりを戻りたりをくりかえす恋人マリーとの情事を描いている。主人公はマリーとの関係に決着をつけるべくポケットに塩酸を忍ばせたりもするが、結局、物語は宙ぶらりんのまま本作『逃げる』に持ち越されることになる。
『逃げる』にもまたトゥーサンならではの仕掛けがふんだんに盛り込まれている。マリーに会うために行った北京で会うことができないばかりか、滞在することになったホテルは改装工事中(ホテルだけでなくあらゆるところで工事をしている)、何かことが行われようとするたび鳴り響く携帯電話の呼び出し音。「未決」というしるしがさまざななところに現れる。一台のバイクに三人がまたがり高速道路を疾走するシーンに至って、トゥーサンの小説がどこかに行きつくことはないのだ、流れるような文体に身をまかせることがトゥーサンの小説を読む正しい態度なのだと思い始めた。ぼくらが人生の次の展開を知らないように、『逃げる』というトゥーサンの主題がそのままタイトルになったこの小説にも行きつく先はないのだとそう思ったとき、物語は急展開する。
 どこに行くのかわからないというのが人生であると同時に、行きつく先は実は知ってたんだっていうのもまた人生なのではないか、そんな終着点がこの小説には用意されている。