誰でもタイトルやあらすじを何となく知っているけど、ちゃんと読んだことがないという小説はけっこうあると思う。18世紀初頭に書かれたデフォーの『ロビンソン漂流記(ロビンソン・クルーソー)』はそうした小説の代表格ではないだろうか。実際に読んでみると、自分が知っているつもりだった『ロビンソン漂流記』とはかなり異なるもう一つの側面があることがわかった。
難破し無人島に漂着したロビンソン・クルーソーはたった一人で島での新しい生活を切り拓いていく。そのやり方は論理的かつ具体的で、絶望的な境遇であるにもかかわらず、頭脳と手足の見事な協働によって、少しずつ生き延びるための地盤を築き上げていく。その様子は、本書の醍醐味の一つである。
その作業は当然のことながら衣食住にわたって行われるが、それらは問題とその解決というプロセスにおいて行われる作業と、目的に向かう信じがたい根気強さという点に集約されるだろう。結果、ロビンソン・クルーソーは無人島に「本宅」と「別荘」を持ち、農作業を行い、家畜を飼い、余剰の食糧を備蓄するに至る。こうしたロビンソン・クルーソーという人間像の中に孤独と困難に立ち向かい克服する近代社会における個人の典型像を見ることができる。
ロビンソンは島で28年もの歳月を過ごすことになるが、おもしろいのは、長きにわたる孤独の生活の中で次第に、紙との対話という形での精神生活が生じてくることだ。
「誰かが私の名前を何度も呼んで、ロビン、ロビン、可哀そうなロビンソン・クルーソー、お前はどこにいるのだ」(吉田健一訳)
彼に呼びかけたのは、ロビンソン・クルーソーが飼っていた鸚鵡だが、それが神からの呼びかけであってもおかしくないくらい、彼は本国イギリスでは見向きもしなかった神への感謝と祈りを忘れない生活を送っている。よく知られている未開人の召使フライデーが現れたのは、無人島生活24年目であり、ロビンソン・クルーソーは島にいる間の大半を実際面での合理精神と勤勉、精神面での神への信仰という孤独な生活を送っていたことになる。
しかし、これまでの静かな生活を一変させる事件が起こる。島は食人の習慣がある未開人たちの処刑場と食人の現場だったのである。フライデーは、危うく食べられそうになるところを逃れて、ロビンソン・クルーソーに助けられ、召使として彼に仕えることになった。この出来事が明らかになってから、『ロビンソン漂流記』はこれまでと全く異なるバイオレンス・アクション小説に様変わりする。
最初に書いたもう一つの側面とはこのことだが、合理精神と信仰が失われたわけではなく、むしろこうしたものが来るべき暴力のためにきちんと準備されてきたという気さえする。未開人に捕まった難破船の乗組員を助けるため、フライデーとともに銃をとったロビンソン・クルーソーの戦いは、壮絶なのもだが、同時にそれは次のように淡々と記されるものでもある。
「木の下から最初に発砲した時に殺されたもの 三人
次に発砲した時に殺されたもの 二人
舟に飛び込んでフライデーに殺されたもの 二人
負傷した後にふフライデーに殺されたもの 二人
森の中でフライデーに殺されたもの 一人
スペイン人に殺されたもの 三人
負傷して倒れていて殺されたもの、又はフライデーに追われて殺されたもの 四人
舟に乗って逃げたもの、そのうち一人は負傷していて、生死不明 四人
合計 二十一人 」
これまでの衣食住に発揮された合理精神が、ここでは戦いに生かされた形だ。ロビンソン・クルーソーの信仰もこの戦いというか殺戮に対して抑制的に働くということはなく、状況に応じて都合よく解釈されただけだ。
ロビンソン・クルーソーはフライデーに食人は罪であることを教え込もうとするが、自身の大量虐殺は殺しの罪にはならないらしい。18世紀初頭に書かれた小説を今の目で批判しても始まらないかもしれないが、もともとロビンソン・クルーソーは奴隷商人として乗り出した航海の途中で難破したという経緯もあり、彼らが考える文明人の枠組みそのものも含めて、見事な近現代史の縮図になっている。